フォト
無料ブログはココログ

教え方上達論

2013年1月24日 (木)

理科の指導案・プロはどこが違うか(相沢陽一)「授業研究」1987.11No.317

「理科の指導案・プロはどこが違うか」という表題をいただいた。
 まず、ここでいうプロということばを次のようにふまえておきたい。
すぐれた授業のできる教師である
では、すぐれた授業とは、どんな授業か。
1.子どもに強い問題意識を持たせ続けている授業
2.子どもの多様な考えが生まれる授業
3.手だてが用意周到で、スキのない授業
こういう授業ができればプロ教師と言ってよいと考えている。
 言うは易く、行うは決して容易ではない。
 スキのない授業であって、しかも、子どもに問題意識を強く持たせ、さらに、多様な考えを生む授業をすることは至難の技である。この至難の技をやりこなすことができる教師は、だこそプロなのである。そういう授業をするために、どういう準備や努力をすればよいのか、そのポイントを述べ、本稿の目的を達したい
   1 教材研究こそ
 プロ教師は常に、よい授業、すぐれた授業をしたいと願い、授業づくりに取り組んでいる。
 そのために、文献研究、実態把握、環境づくり、学級経営などとさまざまな努力をしている。
 その中でも、最も力を注ぐのは教材研究である。
 それは、教材研究が授業という、最もプロ、の大切にしているものに対して、何よりも影響力を持つからである。
 例をあげてみよう。
 五年生の「酸素と二酸化炭素」の授業である。
 ねらいは、「ろうそくが燃えるとき、空気が使われていることを視覚的にとらえさせる」である。
 図の実験をさせることに決め、予備実験に入った。
1
この実験は、炎gw消えかかると容器の中を水面がするするとはい上がり、大変おもしろい。そして、空気が減少したということをはっきりと示してくれる。子どもたちはきっと喜ぶし、夢中で取り組むだろうと考えた。
 私は、ろうそくの長さ、水の量、かぶせる容器を変えて何度も予備実験に取り組んでいた。
 ところが、ふとある疑問が湧いた。
 それは、ろうそくに容器をかぶせたとたんに、必ず容器からぼこぼこと泡がこぼれ出るということである。
 初めのうちは容器のかぶせ方がまずかったのだろうと、気にも留めなかった。
 しかし、何度も試すうちに、はっと気づいたのである。
 この泡は、ろうそくの炎が容器内の空気を加熱膨張させたためにあふれ出たのである。 そして、考え込んでしまった。
 子どもがもし、この泡に目をつければ、実際には空気が減少していても、その事実をわからなくしてしまう恐れがある。
 予備実験を何度もしていると、こうしたさまざまな迷いに出くわすことがある。これが苦しみでもあるが、しかし彼に力をつけてくれる。
 はたせるかな、ろうそくの号数を変えてみることによってこの問題は解決できたのである。
 つまり、できるだけ小さく、炎の弱いろうそくを使うのである。たとえば一号ろうそくである。
 一号ろりそくであれば容器内の空気も、あまり膨張させない。したがって泡は出ない。苦労して得られた方法だけに鬼の首を取ったような気分であった。
 ところが、まもなく、’その方法は気に入らなくなったのである。ろうそくを小さくした分だけ、炎も水の上昇の勢いも小さくなって、何か物足りないものになってしまった
からである。
 もっとインパクトの大きいものにしたいと感じた。
 再び考え込み、しばらくして次の装置を思いついた。
 要するに、空気と炎を完全に閉じ込め、ゼリーという動きやすいもので、空気の体積変化をはっきり見せようというわけである。
2
 この方法のよいところは、次の二点である。
  1 変化が大きく、はっきり見える。
  2 炎の加熱というはたらきと、空気を使っていること
  の両方わかる。
 このように、教材追求は終わりのない旅のようである。
   2 理科の指導案は図を多用して
 いよいよ、指導案を書く。
 理科は板書においてもそうだが、指導案も図を多く使うとよい。
 たとえば、左の図に表したような操作は、言葉だけではなかなか説明しきれない。
 図というのは文と比べて、一目でわかるという便利さがある。したがって、授業中、ふと指導の順序を忘れたとき、あるいは、板書をするときなどに、ちらっと見直すだけで
思い出すことができる。
 授業でスキを見せないためにも図は必ず生きるはずだ。
3
図のよさは、もう一つある。
 それは、授業準備として、実験器具や材料をそろえようとするときに、きわめて能率がよく、しかも漏れがなくなることである。
 何をモろえるかということも、一目でわかるし、図で描いてみた分、頭にはっきり残っているからである。
   3 発問と指示は精選して
 理科授業の多くは、次の段階を追って展開される。
 ① 学習問題の把握
 ② 原因や結果の予想
 ③ 解決方法(観察・実験の方法)の計画
 ④ 観察・実験
 ⑤ 結果の処理とまとめ
 内容によって、もっと簡略化されることはあろう。しかし、だいたいはこの基本的な流れを踏んでいる。
 しかし、この①から⑤を四五分でこなすことは、それほど容易ではない。
 そこで大切となるのは、①から⑤にかける時間配分であり、指示である。そして、限られた時間で、子どもたちの思考を深めさせる発問である。
 まず、指示をどう精選するかについて述べる。
 理科授業の指示で大切なことは、次の三点である。
1.手順を正しく
2.ポイントを強調して
3.手短に
 実験などで、多くは初めに操作手順を一通り指示してから、「さあ、始めなさい」と取り組ませる。
 しかし、そこでの指示に手順の誤りや不明瞭さがあったり、時間が長すぎたりすると、必ずと言ってよいぐらい実験は失敗するし、事故を起こしたりする。
 実験にはすべて緊張感が必要である。しかし、上の原則を持たない指示は、それをくずしていく。
4
だから、何か失敗をするのである。
 1の「手順を正しく」とは、先に述べた実験装置では、上の図のように取り組ませることである。
 2の「ポイントを強調して」とは、操作と観察の留意点を明示するということである。
 この実験では、次の三点である。
 ① 火をフラスコに入れたら、すぐに栓をしっかりする。
 ② ①に続いて、ゼリーの動きを追い、印をつける。
 ③ ②と合わせて、炎の消える様子を見る。
 これらを徹底させるために、図を使うこともよいし、教師がくり返して演示するのもよい。
 さらに言えば、リハーサルを仕組めば、まず間違いはない。リハーサルといっても、部分を練習させることである。
 私は四年生で初めてアルコールランプを扱わせるとき、点火と消火の練習に20分は使う。
 マッチやアルコールランプが怖くて、理科の実験ができるかと考えるからである。
 次に発問へ入る。
 理科の発問研究は、国語ほどにはされていない。
 それは理科にはモノでもって勝負するところがあるからである。モノに語らせることができるからである。それは、音楽の教師が「音楽において、伴奏は発問である」と言うのと一脈通ずるところがある。
 しかし、それでも、発問によって授業の善し悪しは決まる。
 国語ほどではないが、確かに授業を左右している。
五年の「音」の授業でのことである。
 体育館に長いエナメル線がぴんと張り渡してあった。
 その一端に震える音叉を当て、子どもたちに、音と震えが伝わることを指や耳で確かめさせ、こう発問した。
  「音叉の音の何が伝わってきたんだろう」
 授業者は、この「何」を「振動」とか「ふるえ」という意味で使っていたのである。
 これに対し、子どもから「先生、音の何って何」という声が上がったのである。
 つまり、「先生、何を言ってほしいの」という質問なのである。
 授業者は一瞬、戸惑い、ほかのことばを探している様子であった。子どもたちも、ざわめき、何かを言い合っていた。授業がよどんだと思った。
 この場面を除いて、全体として子どもの反応が実に活発でょい授業であったので、余計に心に残っているのである。
 この授業で、教師は、最初のこの発問を、次のように三つに分けて言うべきだったのである。
 発問一  「音叉をたたくと、音叉はどうなりますか」
 発問二 「震えている音叉をエナメル線に触れさせるとエナメル線は、どうなりましたか」
 発問三 「では誰か、この音叉から出た震えや音がエナメル線をどう伝わっていくか、動作でやってくれませんか。できれば、体を震わせ、ウーソとうなりながら、やってください」
 きっと、楽しく、分かりやすい導入になったはずである。
 さて、初めの実験装置に戻る。
 私は、この装置をいきなり子どもに見せる。いきなりと言っても、そろり、そろりと提示する。
 子どもの気を引くためであり、全員が集中するための間を取るためである。
 次に、装置のしくみを簡潔に説明する。要点は次の二つである。
 ①栓をしても、フラスコと管の空気はつながっている。
 ②ゼリーは動くふたになっている。
 そして、次の発問をする。
発問1  「もし、ろうそくに火をつけたら、このゼリーは、上と下のどちらへ動くでしょう」
ここでの発問として考えられるのは、類似したものに限ると、次の三つである。同一部分は省略して書く。
 ① どうなるでしょう。
 ② このゼリーは、どうなるでしょう。
 ③ このゼリーは、上と下のどちらへ動くでしょう。
 どれが、一番よいのか。
 この判断は、授業の意図によって決定される。
 私のここでの意図は次の三つであった。
 1 容器内の空気の量の変化に早く目を向けさせたい。
 2 第一予想、つまり討論に入る前の予想では、できるだけ誤答を誘いたい。
 3 討論の対象となる第一予想のバラIティーを絞っておきたい。
 ①では、ゼリー以外のことについて予想が及ぶ可能性を持つ。②では、ゼリーの動きについて考えるだろうが、正解が多く出やすい。
 こうして、私は③を選択した。
 結果は、次のような反応として現れた。
 発問一に対する子どもの予想(第一予想)と理由
 ・上がる(空気が加熱されて膨張するから)……9人
 ・下がる(空気が使われて減る)…………………18人
 ・上がって下がる(加熱されいったん膨張するが、
 やがて冷やされて下がる)…………………………3人
動かない(酸素が使われても、かわりに二酸化炭素ができる)7人
 正解は「少し上がって、大きく下がる」である。
 この答えは、第二次予想では一四人に増えたが、現象を起こした理由については、六人しか正答できなかった。
 子どもに感想を書かせたところ、
  「ちょっと難しかった。でも、とても深い理由があるのだとわかった。楽しい授業だけど、疲れた」ということであった。
 発問と指示については、理科でもけっしておろそかにしてはならないことを教育実習生の授業を見て、いつも感じる。
 行動の最後まで指示せず、先にふくらませた風船を与えてしまったある教生は、風船電話の授業が一五分間できず、金切り声を上げていた。子どもたちは、一五分間、風
船でバンーボールに夢中になってしまったからである。
 発問や指示は、理科授業ではビールにおける水のようなものだと思っている。ホとフや麦芽のような主役にはなれないが、水が悪くてはけっしてうまいビー・ルはできないからである。
 おわりに

 お前はプロ教師か」ときかれたら、「まだまだ、アマチュアです」としか言えない。
 ただ、プロだと思う教師の授業や彼らの指導案づくりの様子を何度も見てきた。少しでも早くその域に達し、さらに乗り越えたいと願っているし、努めてもいる。
 本稿はいささか荷の重い表題であったが、自己挑戦のつもりで書いた。十分、目的を達したか心配でもある。
 読者諸兄姉のご批判をいただければと思う。
<名古屋市東区大幸南ー愛知教育大学付属名古屋小学校>

理科の発問づくり=定石とプロのコツ (須藤 芳文)「授業研究」1987.10 No.316

    1
 理科教育の大きな特徴として、迫り方の多様性が挙げられる。
 同じ教材でもねらいによって、あるいはまた、どこから切り込むかによって迫り方が異なる。流行もある。理科をやる教師は、こうした研究に熱心であり、それを独創性、独自性として得意に思う傾向がある。
 しかし、こうした熱心な取り組みにもかかわらず、依然として理科はよくわからないという人が多い。
 わからなさの原因は何なのか、一ロでいうと、「他にはっきり分かち伝え、共有財産化していこう」とする意識の欠如である。そのため、書き方にも問題がある。時には、
事実を越えたことまで平気で書いているケースも見られる。このままでよいのであろうか。否である。
 独創性、独自性も大事だが、共通の土俵に立って論議を深めていくことは、今、より重要な課題である。そうでないと、いつまでたっても、現状のわからないという状態か
ら抜け出すことはできない。
 共通の土俵に立つと、授業のよしあしについて、的を絞った論議がなされるようになる。実践を示す人も、検討しやすい形というものを考えるようになる。そうなれば追試
が行われ、授業づくりが一段と明瞭なものになっていく。
 今、追試が全国的に盛んである。国語科や社会科には遅れをとったが、理科の世界でも追試が活発に行われるようになってきた。
  『理科教育別冊』誌(明治図書)のNo.11では、「授業に自信がつく理科『追試』事例集」、翫12では「理科発問の定石化事例集」ということで特集が組まれている。発問を研究しようとする教師にとっては、必読の書である。
 追試論については、『社会科教育臨刊』 (八七年五月号明治図書)で特集が組まれているが、この中で向山洋一氏は、「『追試』から『発問の定石化』へ」と題して提案されている。これに対して岡本明人氏は、「『追試』から……」の「から」を問題にしておられる。そして、追試を上達論と研究方法論とに区別してとらえるのは誤りであると主張
されている。
 私自身のことを考えてみる。向山氏の『春』とか『とび箱』の実践を目にした時は、とにかくすごいと思った。そして、何とかしてこういう教師になりたいものだと思った
ものである。当然、追試をしてみる。この時は、とにかくそのすごさを共有したいと思った。
 法則化運動には若い人がたくさん参加しておられるが、この時の私と同様の気持ちになっている人が多いのではないだろうか。こういう状況を考えると、向山氏の言われる 「『追試』から『定石化』へ」の意味がよくわかる。
 しかし、追試を三つ、四つとやっていくと、単にすごさを共有するのと少し違ってくる。すごさの共有は当然のこととして、なぜこの実践はすごいのかを分析的、研究的に
見ていくようになる。上達論と研究方法論は明確には区別はできないが、年齢とか追試の量によって自ずと重点の置き方が異なる。追試をすればするほど、より研究的視点で
ものを見ていくようになる。
 向山氏と岡本氏では、語りかける対象が異なるのではないか。私はお二人の論文を読んで、そこに追試の上達論を見る思いがした。
 さて、『理科教育別冊』誌に話を戻すが、理科の場合は遅れてスタートした分、岡本氏の論に近い考えが多く見られる。つまり、上達論と研究方法論を同時的に報告してい
るものが多い。
 この報告を読むと、理科においてもいくっかの教材について、定石化が進んでいることがわかる。
 定石化とは、ある教材のある場面について、一つの
有効な手筋と手順が明らかになり、共有財産化されて
いくことと考えている。
有効な、ということは、子供の心や頭がよく回転し、意欲的に学習していく状態をさす。定石化たるか否かは、追試によって証明される。時間に及ぶこともある。授業には流れがある。流れがI区切りつくまでを単位とする。だから、発問づくりを考えていくということは、授業づくりそのものを考えていくと言い替えてもよい。
 さて、どんな教材で定石化がなされつつあるか、例を挙げてみる。
  「うさぎを正しく観察させる方法」 (一年)―この実践については、杉山裕之氏がよりわかりやすい形にされ、そちらを追試する人もいる、「空気はちぢむか」 (三年
向山実践)、「じしやく」 (三年)。
 その他、「豆電球とかん電池」 (四年 向山実践)、「誰でもできる楽しい理科の実験㈲-てこのはたらき」 (六年)I-Iこの実践については、三浦一富氏がすばらしい追試報告をされている、「てこの原理の発見は十分な体感から」 (六年 府中市理科部実践 藤平洋子氏報告)なども有力な候補である。また、拙著『理科発問の定石化』 (明治図書)の中でも、さらにいくつかの実践例を示しているので追試していただきたい。
   
 発問づくりの腕を上げていく上で有効だと思われることを、もう一歩進めて述べてみたい。
 1 どんな時、発問が機能するかを知る
私は発問が機能しやすい場面を一応、次の三つのケースに分けて考えている(今のところ)。
① 動物や虫など、その物の名前を言っただけで、とにかく見たい、触りたいというヶIス たとえば、「かわいいどうぶっIうさぎの観察」(一年)、「虫の育ち方」(四年)
② その物を日常よく目にしたり、触ったりしており物を見せただけで、触りたい、遊びたいというようケース たとえば、「じしゃく」・(三年)、「豆電球とかん電池」(四年)
③ 子供の頭の中が、誤った考えで支配されているよ うなケース たとえば、「温度と空気・水」(四年)、「いもの育ち方2」(四年)
 ①と②は基本的に同じようなものだが、①は観察教材を意識しており、②は実験教材を意識している。三つのケースに共通していることは、子供たちがその物や現象を日常
よく目にしたり、手にしたりしていることである。こういうケースでは、発問や指示の視点がしっかりしていれば、子供の心と頭はよく回転する。
  なお、発問づくりの難度であるが、③が一番難しい。なぜなら、一段落するまでの時間が長めであり、発問も連続 性を要求されるからである。続いて、②、①となる。ついでに述べるが、子供がその物をあまり知らないという場合はどうするか、実は、理科の場合は、こうしたケースがけっこう多い。こういう時は、遊びや試行活動、観察調査などを取り入れる。とにかく情報を与えること、共通体験化を図ることが是非とも必要である(しかし、そうは言っても、なおかつやっかいな教材があることも事実である)。
 2 子どもをとらえる
 私は、「子供にとって役に立つ授業をしたい」といつも願っている。こう考えるのと、教科書に教材があるからと考えるのでは、少々違う。後者のように考えると、何とか
して理解をさせねばということに重点が置かれる。そうなると、教材の論理が優先し、子供の願いや思い、疑問などが横の方に置かれてしまったりする。それに対して、「役
に立つ授業」という考え方に立つと、「子供の心や頭の中に沿った授業づくり」を心がけるようになる。
 そのために私がよく行うのは、事前調査である。本誌八七年一月号では、三年「じしやく」についての事前調査を示した。ここでは、子供の反応が五分五分に分かれる場面が見つかった。当然、授業はそこを中核にして構成していった。
 また、四年「虫の育ち方」という単元の事前調査では、女の子の虫嫌い、男の子の虫に対する思いやりの心の足りなさが目についた。こうなると、その二点を配慮した授業づくりをしていくことになる。
 まだまだ例はあるが、ここでは述べきれない。事前調査は、慣れないと調査項目ばかりが多くなり、そして結果的には、何が何だかわからないということになる。
 事前調査には前提条件がある。それは、
教材研究をやり、自分なりの仮説を持つこと
である。そうでないと、見えるものも見えてこない。事前調査には、二つのポイントがある。
①既習事項の定着度・経験の有無を調べる。
②未習事項の一部を問い、探りを入れる。
私の場合は、絵を描かせるとか文を書かせるなどして、事中においても子供の考えをとらえるようにしている。こうした授業づくりを考えると、授業スタイルについて
もあれこれ考えるようになる。授業であり、それぞれ好みというものもあるだろう。それはそれでよい。好みのスタイルで通せる時は問題はない。しかし凝り固まって、何が何でもと考えるのはいかがなものか。私は、場面によって発問を中核とした授業づくりをしたり実験・観察主体の授業をしたりする。どちらかというと、かなり柔軟だと思っている。その方が自然だし、子供を生かしたものになっていく。
 3 発問づくりのポイントを知る
 発問が機能しそうな場面を見つけたなら、次には具体的に発問を考えていく。その時、心がけていることが三つある(これも今のところ)。
① 意表をつく
 発問が機能するヶIスについては前述した。よく目にしたり、手に触れたりしていることをその一つに挙げた。こうした状況で、あたりまえのことをあたりまえに聞いても
子供はくいついてこない。こういう場合は、意表をつく発問が要求される。意表をついた発問は、子供の心と頭を新鮮にする。視点の新鮮さでは有田・向山両氏の実践がぬき
んでており、私もずい分刺激された。
 一つ例を挙げてみる。四年「いもの育ち方㈲」では次のように授業を展開していった。
  《一時間目》
 ―日なたと日かげに植えてあるジャガイモをそれぞれ一株ずつ掘り起こす。根をきれいに水洗いして、ポリバケツに入れておく(水も入れておく)。
●現象提示1-みんなに見てもらいたい物があります。 これです(と言って、日かげの方の株をポリバケツから 取り出して見せる)。
  根をきれいに洗ってあるので珍しいのか、子供は「オ ーごと声を上げる。
●現象提示2ーもう一つのジャガイモを見てもらいま す(今度は日なたの方の株を取り出して見せる)。
  こちらの方は根も大きく、子いももたくさんついているので、「ウオーツ、スゲことひときわ大きな声を上げる。
●子供を一人前に呼び出し、この二つの株を持たせる。も して、重さの違いを確かめさせる。
   「Aの方(日なた)はすごく重い。Bの方(日かげ) は軽い」と、みんなに教えてあげる。
指示1 この二つのジャガイモを見て、違いをノートに書きなさい。
実際に触らせるとなおよい。
 茎の太さのこと、子いものこと、葉の数、大きさ、色のこと、根のことなど次々と発表が続く。そのうち、Aは日なた、Bは日かげで育った物ではないかと話が進んでいく。
 正解を教える。やっぱりという表情である。
 そこで、次の発問をする。
 (カッターを取り出す)何すると思う? このたねいもを切ってしまいます(と言って、ロなたの方のたねいもを切り離してしまう)。さて、この子いもは大きく育っていくだろうか。
 こう問うと、「育つ」とか「育だない」と叫び出す。考えをノートに書かせる。この話し合いはおもしろい。指示一で出されたことをもとに、次々と話し合いが進んでい
く。その結果、「たねいもの役目はもう終わっていること」 「葉でデンプンがつくられて子いもは育っていく」という二点に考えが集約されていく。(※たねいも説を強硬
に主張する子供がいたら、切ったたねいもにヨウソ液をかけて見せるとよい。まったく反応しないのを見て、考えを変えていく)
 この場面については、合計三度授業をする機会があったが、たいへんおもしろい話し合いになる(原型は拙著『理科発問の定石化』に載せてある)。
 理科の場合は意表のつき方が二通りある。一つは、今、示したように現象提示とタイアップさせる方法。もう一つは、言葉だけで意表をつく方法。効果的なのは、やはり、
前者の方である。
② あいまいさをつく
「ウサギを正しく観察させる方法」などは、この代表的なものである。人間、その物をよく知っているようでも描きなさいなどと言われると、わからないものである。よくわかっていないなと自覚させると、次にはその物を真剣に見たり、考えたりする。
 二年「空気あつめ」、四年「虫の育ち方」などでも、この手法が有効に機能する。
③易から難へと構成する
学習には雰囲気というものが必要である。いきなり難しい発問をしては、解決できるものもできなくなる。子供たちの知ってる心を刺激し、雰囲気を盛り上げていく。その
勢いでもって、難の段階を乗り越えさせる。また、発問の連続性を考える時も、易と難のバランスを考えていくとよい。三年「じしやく」では、このことを特に意識している。
   
 向山洋一氏はオールマイティな方で、理科においてもすばらしい実践を発表されている。その中で、特に強く心を引かれたのは、三年「空気はちぢむか」である。私も一度
だけ三年生を担任したことがある。そして研究会の時、この授業を公開した(この授業は江部満・樋口雅子の両氏にも見ていただいた)。授業づくりにあたって、あれこれ資料に目を通した。しかし、どの実践報告も私の悩みを解決するものではなかった。悩みとは、「空気は縮む」という中心概念をつかませるプロセスに段差があることである。
 名案が浮かばず、私も過去の実践例と同様のプロセスで迫ることにたった。そのプロセスを示してみる。
① マヨネーズなどの空の容器を使い、的当て遊びをさせるi玉の有効性を確認させる。
② 玉の種類をかえで、的当て遊びをさせるI空気がもれないと玉の威力が増すことをつかませる。
③ プラスチ″クの筒を使い、玉を飛ばさせるI空気を押すと縮むことをつかませる。
 ところが、②と③がどうもスムーズにつながらない。大きな段差があるのである。モのため、③の授業は三段論法的で、少々理屈ぽいものになってしまう。
 このプロセスは不自然である。しかし、名案は見つから
ないまま過ぎていった。
  『理科教育』誌八六年二月号(明治図書)で新牧賢三郎氏が、向山氏の授業づくりについて紹介されていた。それを読んで驚いた。何とか苦労してつかませようとしている中心概念を、大胆不敵にも単元の頭に持ってきているのである。そして、なおかつ、ストレトに問うている。
 この授業の追試をしている方はたくさんいると思う。
 『理科教育別冊』誌胞12(明治図書)では、今井清吉氏が追試報告をされている。うまくいったということである。そうであろう。この方法だと子供が主体的に動く。発問は
最初の一つでよい。もういらない。活動的な三年生の特性を生かした見事な展開の仕方である。私が今後めざしていきたい授業の一つである。
 向山氏は、指導要領に必ず目を通すという。ここまではやっている人も多いだろう。すごいのはその後である。この読みとりを通して、何が大切であるかを的確に抜き出してしまう。そして、前述のような大胆な授業づくりをされる。これは、教材を本当に解釈する力がなければ、なかなかできる技ではない。
 向山氏は二年の学習とのつながりを重点にして、「空気はちぢむ」の授業方法を生み出された。これも一つの方法である。今後もこうした例はないかと、研究を進めていく
必要がある。
 ただ、理科の場合は系統性はあるが、その系統性に重なりの部分が少ない。たとえば虫の学習について見てみる。三年ではどちらかと言えば生態に重点が置かれ、四年では育ち方、形態が中心になる。五年になると、魚や水中の微生物というようにまったく異質な学習になる。だから、いつでも前学年とのつながりだけでは授業を仕組んではいけない。
 生活体験やそこから生じる意識をとらえて、授業づくりをしていく必要がある。
 向山氏の実践でよく追試をされるものに、四年「豆電球とかん電池」がある。ここでの学習スタイルは私の好みとするところではないが、それにしても目を見張らせられる
ことがある。
  「本質を見抜き、かみくだく力」であり、「子供を育て、生かす力のすごさ」である。
 こうした力は、向山氏が修業に修業を重ねて身につけたものである。一朝一タにして身につくものでない。
 でも、そうだからといって諦めることはない。何とか近づく方法がある。それ屯かなりの早道で。
  「追試」である。本気で向山氏の力を身につけたいと思うのなら、ただ文を読んで終わりとするのではなく、本気で追試をしてみるとよい。読むだけでは得ることのできな
い、さまざまなものが見えてくる。そればかりか、自分自身の力の向上となってはね返ってくる。このことは、多くの人の体験からも明らかになっていることである。
 -―「発問づくりの定石化」となると、まだまだ漠としたところが多い。「発問の定石化」と並行して考えていかねばならないと思っているところである。
     <旭川市春光町 北海道教育大学附属旭川小学校>

2013年1月23日 (水)

理科の導入指導=定石とプロのわざ (西村功)「授業研究」1987.9 No.315

-授業のゆくえと深まりを創るー
1 パターンの陥穽
 理科の授業を参観するごとに、自分もそうではないだろうかと、自省させられる。
 教師は、子どもに「わからせる」こと、「わかった」といわせることをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 教師は、子どもが「はたらきかける」ことをタテマエとしているが、子どもに「させる」ことをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 パターソ化されたような授業をたどってみると、それは明白である。
 ① 「この前どんなことをしましたか」
 教師が問う。しかし、子どもは印象に残ったことだけをを考える。そこで、さらに問う「そのとき、どんなことをしましたか」。さらに「もっと大事なことをしましたね」といっても「大事」という教師側の価値におののいたように、子どもは沈黙に陥ってしまう。
 「こんなこと」「もっとほかに」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こ’うなると、不確実にしたまま、「では」と「次段階」へとなり、あとは、活動だけ
があり学習のない授業になりがちである。
 ② 「この前、どんなことがわかりましたか」
 教師にとっては、本時への飛躍のために問うたつもりである。しかし、子どもは、はたらきかけたこと、そこに、あらわれたことだけを考える。そこで、さらに問う。「そのことはどんなこと」とか、「そのことから」と事象の意味づけを問う。子どもは「こうしたら、こうなった」という事実をいうだけで精一杯のことが多い。
 「したことで」 「たったことで」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こうなると「こんなことがわかった」はずということを強制・強要して、「つぎ」へと進行する授業になりがちである。
 ③ 「長びら」の設問貼り
 研究授業といえば、どのように問題をもたせるか、板書はどのよう。におこなうか、教師はさまざまに思い廻らす。
 模造紙を長く切り、そこに、マジックインキで教師の意図したことを書いておく、これが「長びら」である。
 「では、今日はこんなことを……」と、黒板に「長びら」が貼られる。
 子どもは、異様な目で見る。なかには「なあんだ。そうだったのか」とか「先生、もっとはやく出してくれたらよかったのに」ということさえある。
 子どもが問題を持つ学習に対し、「長びら」は子どもに問題を示す、与えるということを露呈している。
 ④ 「確かめてみましょう」
 教師は、子どもの学習活動が考えに根ざし筋道に立ったものでありたいとねがっている。子どものすることが確かな考えをもとにしたものでありたいのである。そこで、子
どもが「したい」 「みたい」というと「確かめてみましょう」という。
子どもの考えが十分に深められていない状態にあっては「確かめ」にはならない。また、たった一回だけ「する」「みる」では「確かめ」にはならない。
 教師の口ぐせのような「確かめてみましょう」は、慎重な指導のもとに、’子ども自身が心の中から吐き出してきたときこそ真のものとなるのである。
 ⑤ 「調べてみましょう」
 教師は、子どものおこなう観察・実験がしっかりとした観点をもつものでありたいとねがっている。また、条件に基づくものでありたいのである。そこで、子どもが「する」
こと「みる」ことを「調べてみましょう」という。
 ときとしては、導入時において話し合い活動が中断したままになったときさえ「とにかく調べてみましょう」という場面さえ目にする。さらに、子ども達が問題を意識できないときさえ「とにかく調べてみましょう」ということを目にすることがある。
 難渋した授業に、打開策として発せられる「調べてみましょう」は、何らの呪文にもならない。
 子どもにとっては「したい」 「みたい」というだけでなく、より精細に、より焦点的に目を見開くようになったときこそ真のものとなるのである。
 これらのほか、理科の授業においては、
「なぜだと思いますか」という「なぜ」
「予想をたてましょう」という「予想」
これなども安易に発せられていることである。しかも、授業における難渋を素通りしていくためのものでしかない実情はないだろうか。
2 物・こと・場を子どもが問う
 子どもも教師も、理科の授業の特徴は観察・実験にあるという。つまり「物」を対象にしたり「現象」を対象にしたりすることをいう。
 ところが、ときとして「物」や「現象」を見せないで、教師の問いかけからはじめていく授業を見る。ときには、わざわざ隠しておくことに苦心している授業さえある。
 難渋した話し合いの末、教師が「物」や「現象」を見せると、子どもは「なあんだ」とか「ほら」とかいったあと 「はやく見せてほしかったのに」と不平さえいう。
 プラックーボックスの手法でも「中を見せてほしい」というだけの授業がある。
 見せない、しない、の代わりに教師が問いかけても、子どもにとっては具体的にはならないのである。
 見せることによって具体的に問う。することによって具体的に問う。これが、子どもと対象とのかかおりをつくることなのである。
 見て、子ども自らが問う。することで、子ども自らか問う。理科における問いかけ・発問は、子どもと対象とのかかわりが大きな機能をもっているのである。
 本稿では、「磁石」によって考察しよう。
 ① 「物」がある授業をつくる
 子どもは磁石を見たとき喜ぶ。「磁石だ」とか「こうやって遊んだりとか「こんなことができる」とかいう。それぞれ自分なりの磁石についての経験をもとにいう。
 こうなると、子どもの見た磁石は単なる物体ではなく、さまざまな現象をひきおこし、さまざまなはたらきをひきおこすことをイメージにもったものになる。
 「物」こそ、子どもの情意をかきたて、子どもの活動を促し、さまざまな試みを誘う鍵なのである。
 ② 「こと」(現象)がある授業をつくる
 子どもの目の前に磁石を置くだけでは授業にはならない。それは、磁石だけでは何もおこらないからである。
 このようなとき、子どもは「こうしよう」とか「こうしたら」という。「物」だけでは授業にはならないのである。
 磁石にそっと近づけた鉄くぎが、とびつくように引きつけられると驚く。どこがいちばん強くつくか。つくこと、つまり「こと」という現象が対象になっていく、これが、
一年生「じしやく」の学習とされているのである。
 磁石についた鉄のくぎに、さらに鉄のくぎがつき、鉄くぎが繋がってつく。つくことから繋がってつくことに子どもは目を見張る。より深まった「こと」という現象が対象
になっていく。これが三年生「じしやく」の学習とされているのである。
  「物」そして、物による「こと(現象)」があってこそ授業となるのである。
  「こと」こそ、子どものはたらきかけを促し、対象を考え、認識を深める鍵なのである。
 ③ 「場」(状況)がある授業をつくる
 子どもは磁石でいろいろなことをしようとする。しかし主たることは「つく」かなということをする。
 磁石に何本もの鉄くぎが繋がってつく。磁石の力は強いという。ここでも「つく」ことが関心である。
 ところが、ここへもう一本の別の磁石がはたらきかけると局面は大きく変わる。
 もう。一本の磁石の端を近づけたとき、繋がっていた鉄くぎが引きつけられるときと、繋がっていた鉄くぎが退くときとがあるのである。
  「引きつけられること」と「退けられること」という、「こと」の対立がおこるのである。こうなると、単独の「こと」ではなくなり、「こと」と「こと」とが相乗してくることになる。
 これが、新たな「場(状況)」となってくるのである。
  「物」とかかわる授業から、「こと」とかかおる授業、そして、「場」とかかおる授業になったときこそ、ひろがりと深まりとなっていくのである。
 授業では、このように「場」をどのよう・に構成するかがたいせつなのである。
  「物」を見せる。「こと」を見せる。そして、「場」を見せることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「見る」ことがなくては学習にはならないのである。
  「物」によってする。「こと」をする。そして、「場」とかかおりをもってすることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「する」ことがなくては学習にはならないのである。
 身近な自然から子どもが学ぶという授業は、自然における「物」、自然における「こと」、自然における「場」から創ることなのである。
 具体的事象から子どもが学ぶという授業は、具体としての「物」、具体としての「現象」、具体としての「場」から創ることなのである。
3 子どもに「自問」の場をつくる
 理科の授業では、観察・実験が重視される。
  「理科だから、どんな観察・実験させようかな」という教師のひとりごとは、観察・実験のない理科の授業はあり得ないという潜在意識をあらわしている。
 これが、「物」 「こと」 「場」として工夫される。
 そして、さらに教師はいう。
  「子どもは、どういうかな」
という教師のひとりごとは、子ども自らが「問う」ことの重視をあらわしている。
 そして、「こういうだろ。う」ということ以上に「こういってくれたらよいのだが」と期待する。さらに、「ぜひ、こういわせたい」ということになる。
  「物」「こと」「場」と子どもとのかかおり、子どもの内面をこのように創りたいということを、「こういわせたい」 「こう問わせたい」というのである。
  「こういうことを、いわせよう」
という教師の構想は、いくつかの段階をもつ。磁石に繋がってつく鉄くぎ。三年生の子どもに、別の磁石で鉄くぎの「横取り」をさせる。
 そして、子どもが「問う」ことを創る。
 ① 「できるはず」だといわせる
 子どもは「したい」のである。そして「できる」から行動するのである。そして「できるはず」という考えによって行動するのである。
`「したことがあるから」 「できるはず」という。つまり学習経験があるから「考える」 「する」 「しよう」が結びついてくるのである。
  「できるはず」ということは、経験を思いおこす。経験をもとに考えをまとめる。経験をもとに体験していく。既知から未知をたどる糸口になるのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎの「横取り」は、鉄のくぎは磁石についた、磁石で鉄のくぎを引きつけたという経験から「できるはず」というのである。また、磁石は鉄
を引きつけるという知識から「できるはず」というのである。
 したがって「できるはず」ということは、「自問」であり「自答」なのである。
 ② 「おや」「おかしい」といわせる
 子どもは、できないときでも「したい」のである。だから、できないときでも「そうか」 「それでよい」とはいわない。ときには反復してみる。そして、「おや」 「おかしい」という。
 「できるはず」が覆った驚き、不満。そして、「できるはず」とは別の事実として認めはじめたとき「おや」 「おかしい」というのである。
 「おや」「おかしい」ということは、自分の意識とのずれの発見であり、未経験の発見である。そして、既知のなかの未知の意識化なのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎに、別の磁石を近づけたとき鉄くぎは逃げるように退く。子どもにとっては、引きっけられ、横取りされるはずなのに現象はまったく逆に
なる。驚きであり、不満であり「おや」 「おかしい」ということになる。このことは「なぜか」 「どんなわけで」という意識と共存しているのである。
 したがって「おや」 「おかしい」は、「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ③ 「こうしたら」「こんなとき」といわせる
 子どもは未知の事象に出会うと驚く。そして、考える。「どうしても、こうなるのだろうか」と、もう一度やってみる。そして、反復する。
 反復するときの子どもは慎重である。「こうなるのは」「どうしてか」ということと、「どうしたときか」を見ようとする。
 子どもの慎重な試みは、時間を細分するように順序を意識して進行していく。「いつ」 「どんなとき」かを慎重に追究していく。また、空間を細分するように部分を意識し
て進行していく。「どこ」 「どれで」かを慎重に追究していく。
 磁石に繋がってついている鉄くぎが、別の磁石を近づけたとき逃げるように退いたり、逆に、とびつくように引きつけたりする。「ほら」 「やっぱり」だという事実の肯定
は、「この」磁石で「ここへ」近づけたという「こうしたら」「こんなとき」ということになる。このことは、発見であり、現象や操作をもとにした帰納・帰結である。そし
て「ここ」「このとき」には「わけがある」が共存するようになるのである。
 したがって「こうしたら」 「こんなとき」は、帰納から意味づけをしようとする「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ④ 「これでもなのか」「これでなのか」といわせる
 子どもは、新たな事実に出会うと、これをもたらしたものに驚く。そして、そのものについて考える。そのもののはたらきとして認める方向で考える。「これで」 「こんな
ことが」おこるのか。「これに」 「こんなはたらきが」あるのかと考える。
Photo
磁石に繋がった鉄くぎが、別の磁石によって逃げるように退いた事実、これは、図Aでは「もう一つの磁石によっておきた」「もう一つの磁石のはたらき」として意識され、もう一つの磁石の「これでなのか」ということになる。
 子どもが、ここまで追究してくると、近づけた磁石だけの「これでなのか」という終結にはなりにくくなる。それは、鉄くぎ全部とってしまったらどうかということである。そして、鉄くぎがなくなった磁石と磁石とではということである。
 磁石と磁石での「これでもなのか」と、子ども自らがきりこんだ「自問」を創る。
  「これでなのか」もしれないという子どもの意識があってこそ、根本に迫っていくことになるのである。
 そして、「これでなのか」ということは、「これでもなのか」と、これまで見てきた事象とつながりをつけていくことになるのである。
 磁石に繋がった鉄くぎと磁石とで見たことが、磁石と磁石とでも起るのだろうかというとき、「これでもなのか」という意識とともに、磁石どうしなのかもしれないという
 「これでなのか」もしれないという意識がある。
 さらに、もっと別の磁石どうしの「これでもなのか」と拡がり、それらの同一性から、磁石ではという[これでなのか]という深まりをもつようになるのである。
 したがって、「これでもなのか」 「これでなのか」は、焦点化していく「自問」、一般化していく「自問」になっているのである。
 子どもに自問の場を創り、自問の内容と質を創っていくことは、授業の深まりを創ることである。
  「できるはず」だという既知から未知への「自問」。
  「おや」「おかしい」という未知から疑問への「自問」。
  「こうしたら」「こんなとき」という帰納から意味づけへの「自問」。
「これでもなのか」 「これでなのか」という普遍から帰納への「自問」。
 子どものつぶやき、問いかけが、内的活動の深まりそのものとして力強く行動をひきおこさせたとき、授業は活気に満ちたものになり、子どものものとなるのである。しか
も、行動の軌跡とともに確かな知的生産となるのである。
 子どもに「自問」の場を創らせることが授業の布石となるのである。
4 教師が求め創り続ける授業
 理科の授業を参観したあと、研究協議会がおこなわれる。その研究協議会では、授業者自評がおこなわれることが多い。
 さて、自評をたどってみよう。ときとして、「昨日はうまくいったのに、今日はだめでした」
「同じ物で別の学級でやったときはうまくいったのに、今
日の学級ではだめでした」
「同じ教案・指導計画・展開案で、別の学級でやったときはうまくいったのに、今日の学級ではだめでした」
などを聞かされることがある。これらには、「うまくいくはずだった」という考えがうかがわれる。
 では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいかなかったのか」同じ物・同じ計画だったはずである。
  もっと、つきつめていえば、「学級がちがえば」 「授業 にちがいができた」のはなぜなのだろうか。学級のどのよ。うなことによるのだろうか。
  どうやら、授業は外的条件だけでは決定しないようであ る。
  さらに、自評をたどってみよう。ときとして、
 「はじめから、あのところまでうまくいったのに、あのあ
 とからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなことをしたので、あのあとからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなこ とをいい出したので、あのあとからだめでした」
 などを聞かされることがある。これらにも「うまくいくは ずだった」という考えがうかがわれる。
  では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいか なかったのか」そこには、あのようなことをする子どもが いないはずだったのに、いたのである。また、あのような ことをいう子どもがいないはずだったのに、いたのである。
  してみると、教師の考えていた域とは別の子どもがあっ たのである。どうやら、教師の子どものみえ方に根源があ りそうである。
 「うまくできた学級」と「うまくできなかった学級」それは、別々の学級である。そして、別々の子ども達である。
 A学級とB学級での差異、それは、どのような差異だろうか。
 学級という集団を成員にもどしてみると、個別的に差異のある子どもの学級集団である。
 学級を学ぶ集団としてみたとき、学び方に差異のある学習集団である。
 学級を教師と子どもの集団としてみたとき、担任教師に若干ながらも差異のある人間集団である。
 学級を育ちつつあるものとしてみたとき、育ち方に差異のある成長集団である。
 つまり、学級としての内的条件に差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 また、子どもとしての内的条件にも差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 同一結果に導き、同程度の成果に達するには、外的条件のほか、内的条件の背景が同条件に整備されていなければならないのである。
 学習経験や生活経験。子どもひとりひとりの個性と集団とのかかおり。さらに、情況などが学習指導において重視されるのは外的条件・物的条件だけで決定しないからである。
 「定石」ということについての定義と条件具備は、教育においては極めてむずかしいことである。
 「定石」存在、「定石」重視の囲碁や将棋においても、定義や条件具備はむずかしいのではなかろうか。
 それ以上に注目しておきたいことがある。囲碁や将棋においての「定石」は多数であるという実態である。しかもさらに、新しい「定石」が創られ発見されていく実態である。
 それは、つねに「定石」を超えた布石を求め、「定石」を超えた棋譜を創っていく情熱と工夫によるものである。 同一教師であっても、経験の程度によって授業に差異があらわれる。また、担任した学級のようすにょって授業に差異がある。モの中で、教師はつねに新たな自分の指導観を創り上げているのが実態ではなかろうか。
 自ら「定石」を創り、「定石」を創り変えていく教師で
ありたい。
 ただ、教師はつねに自分の授業を研究報告として公表し合い、それぞれの、「定石」をそれぞれにとりいれ、自分の授業の創造という[定石]化に効率を求め合いたいものである。
        <東京都板橋区高島平 高島第七小学校>
2016年11月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30