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科学教育と授業

2013年1月17日 (木)

「おもしろ理科授業入門」 補章

1.科学教育の目的を考えよう
 ぼくたちは「科学」を教えている。「科学」を教えることを考えるには,そもそも「科学とは何であるか」をとらえておく必要がある。
 科学は,自然を対象とするか社会を対象とするかで,自然科学と社会科学に大きく分けることができる。
 ここでは,自然科学をとり上げる。自然科学は,客観的実在たる自然の構造,法則性,歴史をさぐっていくという理論的探究の営みである。また,その探究の結果として,その歴史的時点での自然像をはっきりさせる体系的知識でもある。
 その自然科学をなぜ教えるか。
 ぼくは,自然科学教育の目的を2つにしぼってみた。
 第1に,おもしろいからである。
 秘密におおわれた自然界のベールをはいでいく,未知の世界だったものがとらえることのできる世界に変わっていく,同時にその先に「わからない世界」が浮かび上がってくる……それは大変おもしろいことだ。
 子どもたちは未知への探究行動を本性上もっているのだ。だから元来,子どもたちは自然が好き,自然科学が好きである。
 自然科学の授業は,自然の秘密を解きあかす理論的探究を,教室の場で行っていくことなのである。
 第2に,行動判断の土台になるからである。
 本当に生死をかけたレベルでの行動の判断は,自然科学の基礎的知識なしでは行えない。
 日常生活では,そんなことはほとんどおこらない。しかし,直接すぐには生死にかかわらないが,公害・環境破壊などじわじわすすむ大量殺人,戦争といった大量殺人に結びつくウソが満ちているのが今日の社会である。それらのウソにだまされないようにしなければならない。
 一見してウソとわかるような粗っぽいデマゴギーなどはなく、「科学的よそおい」をこらした情報がいっぱいなのである。例えば,政府・電力業界による原子力発電の宣伝がそうである。
 それらのウソを見ぬく力を自然科学教育だけで育てるのは無理だが,自然科学なしでは到底できるものではない。
 次は,ある日の授業の1コマである。テーマは「力の合成・分解」。
 いくつかの生花の剣山を生徒にまわした。「手で押してみな」と指示。指で押して「痛い!」という声があがる。手の平で押すと,痛さを感じない。
 「さて,この剣山の上にはだしで立てるかな?」と問う。
 「力の合成・分解」の授業で獲得した考え方をもとにして,「立てる」とする者が多数派。「“立てる”つて人にやってもらうよ」と言うと,ちょっと動揺。それでも,何人かが志願。
 両足で立つ。「さあ,それでは片足になってもらうよ」「えーつ」「片足になると1本1本の針から足に受ける力の大きさは,両足と比べてどうなるか?」
「2倍!」片足になると一挙に2倍になるのである。
 それでも,片足で大丈夫。そこで,ぼくは一冊の本をかざしながら「お話」をしてあげた。ぼくの長男が通っている「忍法教室」(戸隠流忍法)の先生の師(初見良昭氏)がかいた本である。日本刀はタテみがきなので刃の上に乗っても切れないが,知らない人にとっては驚きである。
 初見氏はいう。
 「こういうことをして,超能力者か武芸の名人でもあるかのごとく吹聴している人がいるが,彼らぱビックリ人間”ではなくて,“ビックリ”させることのうまい人たちなのである」
 そんな“危険法術”をいくつか紹介しているが,そのなかに「針の山やガラス片の上に乗る術」がある。
 「(剣山の上に乗れる)同じ理由で,ガラス片の上に乗っても何ともない。しかし,この場合,ガラス片を山積しておくことが肝心である。足の裏の皮膚は全身で最も硬いが,ガラスの山をおりるときには,よくガラスを払わねばならない。 1つのガラス片はたちまち足につきささるからである」
 この話を読んで,「テレビでやっている超能力もののなかには,同じようなものも多いんだよ」と話をした。その後,やっぱりテレビに登場したと。-ことだ。“厳しい訓練の結果”との説明とともに,小学生くらいの女の子ぎでニスの破片の上を歩いてみせたそうである。
 また,先日,Mrマリックなる者のハンドパワーをTVで見た。スプーンまげだ。ぽくはスプーンから完全に離れてスプーンをまげたら手品として最高級だと思った。そうしたら,結局,最後までスプーンにさわっているのだ。「さわっている物どおしには,力がはたらき合う」のは,あたり前の話である。それが力学の基本である。超能力ではなく,まさにハンドパワーである。彼はその点でウソを言っていない。しかし,何らかの「念力」がはたらいかというと,はたらいてまがったのではない。そこが見ぬけるのは,力学を勉強したからだ。自然の法則性にのっとっていなければ,どこかにウソっぱちがあてるわけだ。
 いわゆる「超能力・オカルト」が子ども・大人を問わず心情をとらえるのは,今日の社会のありようが土壌になっていて根が深いのである。「科学への不信」を抱いていることも一原因である。本当の自然科学教育をすすめることで「科学への不信」をとり除かなくてはならない。
 ぼくがあげた2つの目的は,断片的知識を与える教育では達成できなら自然の構造,法則性,歴史,すなわち自然像がとらえられるように科学の基礎的事実,概念,法則をもとに自然を探究していく教育でなければならない。そのとき,子どもたちに科学の基礎的事実,概念・法則がしっかり身につくように授業を体系的に組み立てる必要がある。
 自然科学が発展すればするほど,自然の姿,自然像がはっきりしてくる。そうすると,自然をできるだけ統一的に見わたす理論なり法則は少数になっていく。それらの理論なり法則は,体系的に授業を組み立て,教材として豊かに肉づけしていけば,ほとんどの子どもたちにわかるものなのだ。科学・技術の基礎がわかる授業をすることが,子どもたちに行動判断の土台を与えることになる。結局,科学・技術を戦争に使わせないで,人類の生存のために、福祉のために使わせることの土台になると思うのである。
 1つ注意しておかなければならないことがある。
 「自然科学」を,「物理学・化学・生物学・地学」といった基礎諸科学にせばめないで,工学諸科学までひろげて考えようということである。
 例をあげる。
 小・中学校電気の学習では,電磁気学に閉じこもらないで,電気工学的扱いをしようとなると「回路がわかる,回路をつくることができる」ことがねらいの授業になる。
 電磁気学にとどまっていては,電位とは何かなどが中心になってしまうのである。
 力学の学習でいえば,物に密着した力学なら,ニュートン力学に閉じこもらないで材料力学を考えようとなる。「物には,ばねの性質がある」ことを徹底してやろう,ということになる。鉄の机でもちょっと指で押すと,机は目には見えないほどだがちぢむ。指もちぢむ。そのとき机は,もとにもどろうと指に力を加える・・・・というような内容を扱っていくのである。
 戦争のない社会,民主主義がつらぬく社会をつくるためには,「読み,書き,算」だけでは絶対的にムリである。「読み,書き,算,サイエンス」,これが現代の子どもたちに最低限必要なことである。
2 科学を身近なものに
 中学2年生を引率して遠足に出かけたときのことだ。場所は,奥多摩の山の中,小さな清流のはとり。そこで石でかまどをつくらせ,たきぎをひろわせ,飯ごう炊飯をさせようというのだ。一束いくらで買ったまきをあてがい,できあいのかまどでやらせるよりも意味のある体験になるだろうと考えてのことである。
 結果はどうか。 5人の教員の班がかまどをつくり,火を燃やし,料理を一種類つくり終わったころになっても,子どもたちは火をつけるのに悪戦苦闘していた。前日,雨で杉の葉や本の枝がややしめっていたという悪条件はあったが,それは教員のがわもおなじこと。結局,かまどづくり,火つけの点では,子どもたちと教員とのあいだに圧倒的な差があったということなのだ。
 ぼくはそのとき,30代半ば。少年時代はかまどにまきをくべ,ご飯をたき、ふろをわかした。それはぼくの仕事だった。都会は別として,そんなことはアタリマエの時代だったような気がする。野山をかけめぐる少年時代だった。
こんなことをおもいだしたのも『私たちの科学研究 新版』(大日本図書,昭和27年初版)の燃焼にかかわるところを読んだからである。この教科書は「生活単元学習」時代の教科書のひとつである。各単元は,「水は自然界のどんなところにあるか」「生物はどこでどのように生育するか」「天体は私たちの生活にどのようなつながりをもっているか」「電気はどのように利用されているか」「科学の研究は生物の改良にどのように役だっているか」「科学によって見える世界はどのように広がったか」「科学は人生にどんな貢献をしているか」などなどのテーマで推察できるように,生活を中心にすえて構成されて
いる。
 このなかに,「熱や光は近代生活にどのように利用されているか」という単元がある。むかしの人の発火法から話をはじめ,燃料の種類と使い方,ものの燃やし方,燃えてできるもの,というセクションがあるが,それが燃焼にかかおることである。
 ここにはいろいろなかまどの図もあって,かつてかまどのまえでまきをくべながら,その日のつらいこと,悲しいことを流し去っていた少年時代をおもいおこしたというわけなのである。 レ
 いま,かつてと比べて,ぼくたちの生活は便利になりすぎた。自然と一体になってくらしているというところからあまりにも遠ざかりすぎた。生活もそうだが,学習にもそのような傾向がないだろうか。かまどづくりや火づくりを学習させなければならないというわけではない。生活が便利になった,生活体験が希薄になったことをふまえて,学習が組まれているかを問いたいのだ。炭の燃焼をみたこともない生徒に「炭素の燃焼」を教えているのである。この現実は重いのではないか。
 だからといって、生活単元学習の時代にもどることがいいわけではない。生活単元学習では,たとえば,水にかんする様々な学習に「水のなりたち」がくみこまれ,そこで水の分解,酸素と水素から水ができる……という素材から分解,化合という化学変化の初歩的概念が学習された。それがさきほどの燃焼にひきつがれた。実際生活のなかに学習が埋没しているのだ。これでは自然科学の基礎的事実・概念・法則を系統的に学習することと比べて,あまりにも断片的であり,科学としては低いレベルをはいまわるものにしかな
りえなかったのは当然であった。
 それでも生活単元学習がめざしたもの,えがいた夢を完全に否定してはならないのではないか。子どもたちを頭でっかち。にするのではなく,多様な自然(物質)とふれあい,「身近な」自然(物質)をしっかりととらえられるような科学の授業をしなければならないと考えるのである。自然科学の基礎的事実・概念・法則と生活,ひろくは「人間の生きかた」とを意識的・積極的に結びつけよう。科学を子どもたちにとっても身近なものにしなければならない。
3 主体性をもって授業実践を
  一子ども・自然・自然科学から出発しようー
 ぽくには夢がある。
 自分なりに,過去の,大げさにいえば,わが日本の理科教育の成果を土台に内容を考え,「こんな発問を投げかければ,どんな反応が返ってくるか。きっとこの意見とあの意見が出るだろうな。そうしたら……」などと考え,胸をわくわくさせて教室へ向かう。いそいそと恋人にでも会いにいくようなつもりで教室へ向かうのだ。そうして,悪戦苦闘でよい,教師と生徒たちが教材を仲立ちに共に授業を創って,「ああ今日は生徒が一所懸命に考えぬいて一歩前進してくれたなあ。ぼくも,だいぶ生徒たちから学ぶことがあったなあ」という充実感につつまれて教室を出る,という夢なのである。
 そんな夢が現実化するのは年に何回もないけれど,やはり夢を追いもとめていきたいものだ。夢を夢のままで終わらせたくないのだ。「偉大な人生とは何か。青年時代の思想を歳をとっても実行することである」という言葉を,学生時代にかきつけていた自分なのだから。
 しかし,「当たらずさわらずに,高校入試に出そうな所を重点的にやっていればいいのだよ」という悪魔の声が耳もとでささやく。その声を聞き入れれば,平穏無事な教師生活が約束されるのだろう。ナマケ者で,グータラなぽくは,そんな声にも「ナルホドなあ」などと心をゆりうごかされる面もあるけれど,教科書を上手にこなし,高校入試に生徒が少しは有利になったとしても,ぼく自身のなかで失われるものの多さを恐れている。
 ぼくは,自主編成ということを,「教師の主体性」という観点で考える。教科書を使わないで,何かしらのプリントを使うから自主編成といえるわけではないのだ。自分の存在をかけて,「ギリギリこういう内容を教えるのだ。今の自分では,ここを教えるには,こういう教材で,こういう配列で,こう教えなくてはならんのだ」と主張し得るなら,教科書をその目標達成の教材・教具の1つとして使おうが,独自のプリントを使おうが,それが自主編成といえるのだ,と考えている。
 教科書は,優秀だとされているライターによって本文がかかれ,授業でとりあげるべき実験がえらばれ,美しい写真が配置されている。各教科書会社が強い制約のもとで精一杯「良い教科書をつくろう」ととり組んでいるのは認めよう。
 にもかかわらず,教科書に拘束されていては「楽しくわかる授業」は無理だと考える。というのは,現在の教科書検定制度のもとでは,子ども・自然・自然科学から出発した教科書づくりがされているわけではないからである。
 だから,まず教師が教科書から自立していることが必要なのだ。自立したうえで教科書に「おつきあい」しない限り,指導内容,いや指導方法までもが教科書によって強く拘束されてしまうだろう。教科書にひきずられるという事になりやすいのである。
 ぼくたちは,「何を」「いかに」教えるのかを,子ども・自然・自然科学から出発して実践的に研究していこう。そのために学期に1つの単元,いや少なくとも年に1回の単元は教科書から自立をし,自分なりに考えぬき意識的に授業をやっていこう。そうして1人の教師として年々太っていくと共に,その成果(失敗もふくめて)を交流しあうなかで,「楽しくわかる授業」の内容と方法を確立していこうではないか。
4 新しい授業を創り出すための実態調査を
教育界には,「論文」「報告」が満ちあふれている。附属学校などで定例的に出している「研究紀要」。何かの研究指定校になって取り組んだことの「研究報告」などなど。
 どんどん教育研究がすすんでいるのなら,わが国の教育はもっと良くなっていい。学習指導要領などに現場がふりまわされるという情ないことにはなるまい。「理科」の部分だけをみても,全国の「研究」の成果の上にたって,作成しているとは到底思えない。官僚や作成委員の学者先生の恣意的な作文なのだもの。
 まあ,しかたがないか。教育界にあふれる「論文」「報告」のほとんどの読者は,書いた本人くらいであるだろうから。それらの内容の前提になったであろう公開研究会は,形式的なお祭りさわぎに終っていることが多いのだから。
 それらの「論文」「報告」には,しばしば実態調査なるアンケート調査の報告がのっている。
 「ある単元の教材研究や授業研究をしよう」となると,「とりあえず実態調査をやろう」ということになるようだ。まことに安易な発想である。
 そこには,“数値(データ)イ言仰”がある。どうも数値を示すと「科学的」という錯覚がある。もちろん,数値など具体的裏づけはないよりはあったほうがいい。しかし,調査そのものの妥当性がないのに,数値を示したって何の意味もないことも確かである。
 アンヶ-卜方式の実態調査を集計して,集計結果を%などで表す。すると「科学的」な感じがして自己満足できる。
 ぼくが実態調査というと,すぐ思いうかべる調査がある。それは,   1950年代の終わりから1960年代前半に板倉聖宣さん(国立教育研究所)たちが行った調査だ。それを超えるレベルの実態調査に,ぼくは出会っていない。
 それは,日本科学史学会の『科学史研究j No.52 (1959年)の「理科教育におけるアリストテレス・スコラ的力学観と原子論的・ガリレイ的力学力観」(板倉聖宣『科学と方法』季節社所収)と,『国立教育研究所紀要j No.46 (1965年)の「物理学の基礎的な考え方の理解の実情」である。その調査結果などをもとにして,板倉聖宣・江沢洋『物理学入門 科学教育の現代化』(国土社)が書かれている。
 板倉さんは,当時,「これらのテスト結果の誤答分析を通じて小学校から高校における物理,とくに力学の教育の全面的な改革について研究を計画して試行して」いた最中であった。仮説実験授業の具体化がはかられていたのである。仮説実験授業のテキスト「ばねと力」や「物とその重さ」が姿を現そうという時であった。
 ぼくは,板倉さんたちが「科学の基本的な考え方をどれほど身につけているかということを,従来の物理の調べ方の盲点をつくような検査問題を,各校に同じ形で課することによって調査しようとした」とするなかで,「検査問題」に注目する。
 それは,「……を知っていますか」「……をしたことがありますか」などというレベルの問題ではない。庄司晃和さんのように,認識の世界を「素朴的段階(第1段階),過渡的段階(第2段階),本格的段階(第3段階)」の3つの段階に区分けしたとすると,本格的段階(第3段階)の認識実態を「従来の物理の学力の調べ方の盲点をつくような検査問題」を通して洗い出そうとしたものだった。その「問題」作成のバックグラウンドに,板倉さんたちの科学史研究がある。「科学の歴史にみられる誤まった考え方が,科学教育の場でも見られるのではないか,という予想をたしかめるため」である。
 仮説実験授業を生み出す前夜に行れた実態調査,新しい科学教育を創り出そうとしている時に,自分たちの仮説検証の1つとして行われた実態調査一本物の実態調査とはそういうものなのだ。
 実態調査をやるなら,新しい授業の構想に結びつくような内容でやってもらいたい。「何が研究”らしいことをやりました」というアリバイづくりではないものを。
左巻健男 「おもしろ理科授業入門」1991年9月25日 初版 補章
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