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2013年1月の投稿

2013年1月24日 (木)

理科の指導案・プロはどこが違うか(相沢陽一)「授業研究」1987.11No.317

「理科の指導案・プロはどこが違うか」という表題をいただいた。
 まず、ここでいうプロということばを次のようにふまえておきたい。
すぐれた授業のできる教師である
では、すぐれた授業とは、どんな授業か。
1.子どもに強い問題意識を持たせ続けている授業
2.子どもの多様な考えが生まれる授業
3.手だてが用意周到で、スキのない授業
こういう授業ができればプロ教師と言ってよいと考えている。
 言うは易く、行うは決して容易ではない。
 スキのない授業であって、しかも、子どもに問題意識を強く持たせ、さらに、多様な考えを生む授業をすることは至難の技である。この至難の技をやりこなすことができる教師は、だこそプロなのである。そういう授業をするために、どういう準備や努力をすればよいのか、そのポイントを述べ、本稿の目的を達したい
   1 教材研究こそ
 プロ教師は常に、よい授業、すぐれた授業をしたいと願い、授業づくりに取り組んでいる。
 そのために、文献研究、実態把握、環境づくり、学級経営などとさまざまな努力をしている。
 その中でも、最も力を注ぐのは教材研究である。
 それは、教材研究が授業という、最もプロ、の大切にしているものに対して、何よりも影響力を持つからである。
 例をあげてみよう。
 五年生の「酸素と二酸化炭素」の授業である。
 ねらいは、「ろうそくが燃えるとき、空気が使われていることを視覚的にとらえさせる」である。
 図の実験をさせることに決め、予備実験に入った。
1
この実験は、炎gw消えかかると容器の中を水面がするするとはい上がり、大変おもしろい。そして、空気が減少したということをはっきりと示してくれる。子どもたちはきっと喜ぶし、夢中で取り組むだろうと考えた。
 私は、ろうそくの長さ、水の量、かぶせる容器を変えて何度も予備実験に取り組んでいた。
 ところが、ふとある疑問が湧いた。
 それは、ろうそくに容器をかぶせたとたんに、必ず容器からぼこぼこと泡がこぼれ出るということである。
 初めのうちは容器のかぶせ方がまずかったのだろうと、気にも留めなかった。
 しかし、何度も試すうちに、はっと気づいたのである。
 この泡は、ろうそくの炎が容器内の空気を加熱膨張させたためにあふれ出たのである。 そして、考え込んでしまった。
 子どもがもし、この泡に目をつければ、実際には空気が減少していても、その事実をわからなくしてしまう恐れがある。
 予備実験を何度もしていると、こうしたさまざまな迷いに出くわすことがある。これが苦しみでもあるが、しかし彼に力をつけてくれる。
 はたせるかな、ろうそくの号数を変えてみることによってこの問題は解決できたのである。
 つまり、できるだけ小さく、炎の弱いろうそくを使うのである。たとえば一号ろうそくである。
 一号ろりそくであれば容器内の空気も、あまり膨張させない。したがって泡は出ない。苦労して得られた方法だけに鬼の首を取ったような気分であった。
 ところが、まもなく、’その方法は気に入らなくなったのである。ろうそくを小さくした分だけ、炎も水の上昇の勢いも小さくなって、何か物足りないものになってしまった
からである。
 もっとインパクトの大きいものにしたいと感じた。
 再び考え込み、しばらくして次の装置を思いついた。
 要するに、空気と炎を完全に閉じ込め、ゼリーという動きやすいもので、空気の体積変化をはっきり見せようというわけである。
2
 この方法のよいところは、次の二点である。
  1 変化が大きく、はっきり見える。
  2 炎の加熱というはたらきと、空気を使っていること
  の両方わかる。
 このように、教材追求は終わりのない旅のようである。
   2 理科の指導案は図を多用して
 いよいよ、指導案を書く。
 理科は板書においてもそうだが、指導案も図を多く使うとよい。
 たとえば、左の図に表したような操作は、言葉だけではなかなか説明しきれない。
 図というのは文と比べて、一目でわかるという便利さがある。したがって、授業中、ふと指導の順序を忘れたとき、あるいは、板書をするときなどに、ちらっと見直すだけで
思い出すことができる。
 授業でスキを見せないためにも図は必ず生きるはずだ。
3
図のよさは、もう一つある。
 それは、授業準備として、実験器具や材料をそろえようとするときに、きわめて能率がよく、しかも漏れがなくなることである。
 何をモろえるかということも、一目でわかるし、図で描いてみた分、頭にはっきり残っているからである。
   3 発問と指示は精選して
 理科授業の多くは、次の段階を追って展開される。
 ① 学習問題の把握
 ② 原因や結果の予想
 ③ 解決方法(観察・実験の方法)の計画
 ④ 観察・実験
 ⑤ 結果の処理とまとめ
 内容によって、もっと簡略化されることはあろう。しかし、だいたいはこの基本的な流れを踏んでいる。
 しかし、この①から⑤を四五分でこなすことは、それほど容易ではない。
 そこで大切となるのは、①から⑤にかける時間配分であり、指示である。そして、限られた時間で、子どもたちの思考を深めさせる発問である。
 まず、指示をどう精選するかについて述べる。
 理科授業の指示で大切なことは、次の三点である。
1.手順を正しく
2.ポイントを強調して
3.手短に
 実験などで、多くは初めに操作手順を一通り指示してから、「さあ、始めなさい」と取り組ませる。
 しかし、そこでの指示に手順の誤りや不明瞭さがあったり、時間が長すぎたりすると、必ずと言ってよいぐらい実験は失敗するし、事故を起こしたりする。
 実験にはすべて緊張感が必要である。しかし、上の原則を持たない指示は、それをくずしていく。
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だから、何か失敗をするのである。
 1の「手順を正しく」とは、先に述べた実験装置では、上の図のように取り組ませることである。
 2の「ポイントを強調して」とは、操作と観察の留意点を明示するということである。
 この実験では、次の三点である。
 ① 火をフラスコに入れたら、すぐに栓をしっかりする。
 ② ①に続いて、ゼリーの動きを追い、印をつける。
 ③ ②と合わせて、炎の消える様子を見る。
 これらを徹底させるために、図を使うこともよいし、教師がくり返して演示するのもよい。
 さらに言えば、リハーサルを仕組めば、まず間違いはない。リハーサルといっても、部分を練習させることである。
 私は四年生で初めてアルコールランプを扱わせるとき、点火と消火の練習に20分は使う。
 マッチやアルコールランプが怖くて、理科の実験ができるかと考えるからである。
 次に発問へ入る。
 理科の発問研究は、国語ほどにはされていない。
 それは理科にはモノでもって勝負するところがあるからである。モノに語らせることができるからである。それは、音楽の教師が「音楽において、伴奏は発問である」と言うのと一脈通ずるところがある。
 しかし、それでも、発問によって授業の善し悪しは決まる。
 国語ほどではないが、確かに授業を左右している。
五年の「音」の授業でのことである。
 体育館に長いエナメル線がぴんと張り渡してあった。
 その一端に震える音叉を当て、子どもたちに、音と震えが伝わることを指や耳で確かめさせ、こう発問した。
  「音叉の音の何が伝わってきたんだろう」
 授業者は、この「何」を「振動」とか「ふるえ」という意味で使っていたのである。
 これに対し、子どもから「先生、音の何って何」という声が上がったのである。
 つまり、「先生、何を言ってほしいの」という質問なのである。
 授業者は一瞬、戸惑い、ほかのことばを探している様子であった。子どもたちも、ざわめき、何かを言い合っていた。授業がよどんだと思った。
 この場面を除いて、全体として子どもの反応が実に活発でょい授業であったので、余計に心に残っているのである。
 この授業で、教師は、最初のこの発問を、次のように三つに分けて言うべきだったのである。
 発問一  「音叉をたたくと、音叉はどうなりますか」
 発問二 「震えている音叉をエナメル線に触れさせるとエナメル線は、どうなりましたか」
 発問三 「では誰か、この音叉から出た震えや音がエナメル線をどう伝わっていくか、動作でやってくれませんか。できれば、体を震わせ、ウーソとうなりながら、やってください」
 きっと、楽しく、分かりやすい導入になったはずである。
 さて、初めの実験装置に戻る。
 私は、この装置をいきなり子どもに見せる。いきなりと言っても、そろり、そろりと提示する。
 子どもの気を引くためであり、全員が集中するための間を取るためである。
 次に、装置のしくみを簡潔に説明する。要点は次の二つである。
 ①栓をしても、フラスコと管の空気はつながっている。
 ②ゼリーは動くふたになっている。
 そして、次の発問をする。
発問1  「もし、ろうそくに火をつけたら、このゼリーは、上と下のどちらへ動くでしょう」
ここでの発問として考えられるのは、類似したものに限ると、次の三つである。同一部分は省略して書く。
 ① どうなるでしょう。
 ② このゼリーは、どうなるでしょう。
 ③ このゼリーは、上と下のどちらへ動くでしょう。
 どれが、一番よいのか。
 この判断は、授業の意図によって決定される。
 私のここでの意図は次の三つであった。
 1 容器内の空気の量の変化に早く目を向けさせたい。
 2 第一予想、つまり討論に入る前の予想では、できるだけ誤答を誘いたい。
 3 討論の対象となる第一予想のバラIティーを絞っておきたい。
 ①では、ゼリー以外のことについて予想が及ぶ可能性を持つ。②では、ゼリーの動きについて考えるだろうが、正解が多く出やすい。
 こうして、私は③を選択した。
 結果は、次のような反応として現れた。
 発問一に対する子どもの予想(第一予想)と理由
 ・上がる(空気が加熱されて膨張するから)……9人
 ・下がる(空気が使われて減る)…………………18人
 ・上がって下がる(加熱されいったん膨張するが、
 やがて冷やされて下がる)…………………………3人
動かない(酸素が使われても、かわりに二酸化炭素ができる)7人
 正解は「少し上がって、大きく下がる」である。
 この答えは、第二次予想では一四人に増えたが、現象を起こした理由については、六人しか正答できなかった。
 子どもに感想を書かせたところ、
  「ちょっと難しかった。でも、とても深い理由があるのだとわかった。楽しい授業だけど、疲れた」ということであった。
 発問と指示については、理科でもけっしておろそかにしてはならないことを教育実習生の授業を見て、いつも感じる。
 行動の最後まで指示せず、先にふくらませた風船を与えてしまったある教生は、風船電話の授業が一五分間できず、金切り声を上げていた。子どもたちは、一五分間、風
船でバンーボールに夢中になってしまったからである。
 発問や指示は、理科授業ではビールにおける水のようなものだと思っている。ホとフや麦芽のような主役にはなれないが、水が悪くてはけっしてうまいビー・ルはできないからである。
 おわりに

 お前はプロ教師か」ときかれたら、「まだまだ、アマチュアです」としか言えない。
 ただ、プロだと思う教師の授業や彼らの指導案づくりの様子を何度も見てきた。少しでも早くその域に達し、さらに乗り越えたいと願っているし、努めてもいる。
 本稿はいささか荷の重い表題であったが、自己挑戦のつもりで書いた。十分、目的を達したか心配でもある。
 読者諸兄姉のご批判をいただければと思う。
<名古屋市東区大幸南ー愛知教育大学付属名古屋小学校>

理科の発問づくり=定石とプロのコツ (須藤 芳文)「授業研究」1987.10 No.316

    1
 理科教育の大きな特徴として、迫り方の多様性が挙げられる。
 同じ教材でもねらいによって、あるいはまた、どこから切り込むかによって迫り方が異なる。流行もある。理科をやる教師は、こうした研究に熱心であり、それを独創性、独自性として得意に思う傾向がある。
 しかし、こうした熱心な取り組みにもかかわらず、依然として理科はよくわからないという人が多い。
 わからなさの原因は何なのか、一ロでいうと、「他にはっきり分かち伝え、共有財産化していこう」とする意識の欠如である。そのため、書き方にも問題がある。時には、
事実を越えたことまで平気で書いているケースも見られる。このままでよいのであろうか。否である。
 独創性、独自性も大事だが、共通の土俵に立って論議を深めていくことは、今、より重要な課題である。そうでないと、いつまでたっても、現状のわからないという状態か
ら抜け出すことはできない。
 共通の土俵に立つと、授業のよしあしについて、的を絞った論議がなされるようになる。実践を示す人も、検討しやすい形というものを考えるようになる。そうなれば追試
が行われ、授業づくりが一段と明瞭なものになっていく。
 今、追試が全国的に盛んである。国語科や社会科には遅れをとったが、理科の世界でも追試が活発に行われるようになってきた。
  『理科教育別冊』誌(明治図書)のNo.11では、「授業に自信がつく理科『追試』事例集」、翫12では「理科発問の定石化事例集」ということで特集が組まれている。発問を研究しようとする教師にとっては、必読の書である。
 追試論については、『社会科教育臨刊』 (八七年五月号明治図書)で特集が組まれているが、この中で向山洋一氏は、「『追試』から『発問の定石化』へ」と題して提案されている。これに対して岡本明人氏は、「『追試』から……」の「から」を問題にしておられる。そして、追試を上達論と研究方法論とに区別してとらえるのは誤りであると主張
されている。
 私自身のことを考えてみる。向山氏の『春』とか『とび箱』の実践を目にした時は、とにかくすごいと思った。そして、何とかしてこういう教師になりたいものだと思った
ものである。当然、追試をしてみる。この時は、とにかくそのすごさを共有したいと思った。
 法則化運動には若い人がたくさん参加しておられるが、この時の私と同様の気持ちになっている人が多いのではないだろうか。こういう状況を考えると、向山氏の言われる 「『追試』から『定石化』へ」の意味がよくわかる。
 しかし、追試を三つ、四つとやっていくと、単にすごさを共有するのと少し違ってくる。すごさの共有は当然のこととして、なぜこの実践はすごいのかを分析的、研究的に
見ていくようになる。上達論と研究方法論は明確には区別はできないが、年齢とか追試の量によって自ずと重点の置き方が異なる。追試をすればするほど、より研究的視点で
ものを見ていくようになる。
 向山氏と岡本氏では、語りかける対象が異なるのではないか。私はお二人の論文を読んで、そこに追試の上達論を見る思いがした。
 さて、『理科教育別冊』誌に話を戻すが、理科の場合は遅れてスタートした分、岡本氏の論に近い考えが多く見られる。つまり、上達論と研究方法論を同時的に報告してい
るものが多い。
 この報告を読むと、理科においてもいくっかの教材について、定石化が進んでいることがわかる。
 定石化とは、ある教材のある場面について、一つの
有効な手筋と手順が明らかになり、共有財産化されて
いくことと考えている。
有効な、ということは、子供の心や頭がよく回転し、意欲的に学習していく状態をさす。定石化たるか否かは、追試によって証明される。時間に及ぶこともある。授業には流れがある。流れがI区切りつくまでを単位とする。だから、発問づくりを考えていくということは、授業づくりそのものを考えていくと言い替えてもよい。
 さて、どんな教材で定石化がなされつつあるか、例を挙げてみる。
  「うさぎを正しく観察させる方法」 (一年)―この実践については、杉山裕之氏がよりわかりやすい形にされ、そちらを追試する人もいる、「空気はちぢむか」 (三年
向山実践)、「じしやく」 (三年)。
 その他、「豆電球とかん電池」 (四年 向山実践)、「誰でもできる楽しい理科の実験㈲-てこのはたらき」 (六年)I-Iこの実践については、三浦一富氏がすばらしい追試報告をされている、「てこの原理の発見は十分な体感から」 (六年 府中市理科部実践 藤平洋子氏報告)なども有力な候補である。また、拙著『理科発問の定石化』 (明治図書)の中でも、さらにいくつかの実践例を示しているので追試していただきたい。
   
 発問づくりの腕を上げていく上で有効だと思われることを、もう一歩進めて述べてみたい。
 1 どんな時、発問が機能するかを知る
私は発問が機能しやすい場面を一応、次の三つのケースに分けて考えている(今のところ)。
① 動物や虫など、その物の名前を言っただけで、とにかく見たい、触りたいというヶIス たとえば、「かわいいどうぶっIうさぎの観察」(一年)、「虫の育ち方」(四年)
② その物を日常よく目にしたり、触ったりしており物を見せただけで、触りたい、遊びたいというようケース たとえば、「じしゃく」・(三年)、「豆電球とかん電池」(四年)
③ 子供の頭の中が、誤った考えで支配されているよ うなケース たとえば、「温度と空気・水」(四年)、「いもの育ち方2」(四年)
 ①と②は基本的に同じようなものだが、①は観察教材を意識しており、②は実験教材を意識している。三つのケースに共通していることは、子供たちがその物や現象を日常
よく目にしたり、手にしたりしていることである。こういうケースでは、発問や指示の視点がしっかりしていれば、子供の心と頭はよく回転する。
  なお、発問づくりの難度であるが、③が一番難しい。なぜなら、一段落するまでの時間が長めであり、発問も連続 性を要求されるからである。続いて、②、①となる。ついでに述べるが、子供がその物をあまり知らないという場合はどうするか、実は、理科の場合は、こうしたケースがけっこう多い。こういう時は、遊びや試行活動、観察調査などを取り入れる。とにかく情報を与えること、共通体験化を図ることが是非とも必要である(しかし、そうは言っても、なおかつやっかいな教材があることも事実である)。
 2 子どもをとらえる
 私は、「子供にとって役に立つ授業をしたい」といつも願っている。こう考えるのと、教科書に教材があるからと考えるのでは、少々違う。後者のように考えると、何とか
して理解をさせねばということに重点が置かれる。そうなると、教材の論理が優先し、子供の願いや思い、疑問などが横の方に置かれてしまったりする。それに対して、「役
に立つ授業」という考え方に立つと、「子供の心や頭の中に沿った授業づくり」を心がけるようになる。
 そのために私がよく行うのは、事前調査である。本誌八七年一月号では、三年「じしやく」についての事前調査を示した。ここでは、子供の反応が五分五分に分かれる場面が見つかった。当然、授業はそこを中核にして構成していった。
 また、四年「虫の育ち方」という単元の事前調査では、女の子の虫嫌い、男の子の虫に対する思いやりの心の足りなさが目についた。こうなると、その二点を配慮した授業づくりをしていくことになる。
 まだまだ例はあるが、ここでは述べきれない。事前調査は、慣れないと調査項目ばかりが多くなり、そして結果的には、何が何だかわからないということになる。
 事前調査には前提条件がある。それは、
教材研究をやり、自分なりの仮説を持つこと
である。そうでないと、見えるものも見えてこない。事前調査には、二つのポイントがある。
①既習事項の定着度・経験の有無を調べる。
②未習事項の一部を問い、探りを入れる。
私の場合は、絵を描かせるとか文を書かせるなどして、事中においても子供の考えをとらえるようにしている。こうした授業づくりを考えると、授業スタイルについて
もあれこれ考えるようになる。授業であり、それぞれ好みというものもあるだろう。それはそれでよい。好みのスタイルで通せる時は問題はない。しかし凝り固まって、何が何でもと考えるのはいかがなものか。私は、場面によって発問を中核とした授業づくりをしたり実験・観察主体の授業をしたりする。どちらかというと、かなり柔軟だと思っている。その方が自然だし、子供を生かしたものになっていく。
 3 発問づくりのポイントを知る
 発問が機能しそうな場面を見つけたなら、次には具体的に発問を考えていく。その時、心がけていることが三つある(これも今のところ)。
① 意表をつく
 発問が機能するヶIスについては前述した。よく目にしたり、手に触れたりしていることをその一つに挙げた。こうした状況で、あたりまえのことをあたりまえに聞いても
子供はくいついてこない。こういう場合は、意表をつく発問が要求される。意表をついた発問は、子供の心と頭を新鮮にする。視点の新鮮さでは有田・向山両氏の実践がぬき
んでており、私もずい分刺激された。
 一つ例を挙げてみる。四年「いもの育ち方㈲」では次のように授業を展開していった。
  《一時間目》
 ―日なたと日かげに植えてあるジャガイモをそれぞれ一株ずつ掘り起こす。根をきれいに水洗いして、ポリバケツに入れておく(水も入れておく)。
●現象提示1-みんなに見てもらいたい物があります。 これです(と言って、日かげの方の株をポリバケツから 取り出して見せる)。
  根をきれいに洗ってあるので珍しいのか、子供は「オ ーごと声を上げる。
●現象提示2ーもう一つのジャガイモを見てもらいま す(今度は日なたの方の株を取り出して見せる)。
  こちらの方は根も大きく、子いももたくさんついているので、「ウオーツ、スゲことひときわ大きな声を上げる。
●子供を一人前に呼び出し、この二つの株を持たせる。も して、重さの違いを確かめさせる。
   「Aの方(日なた)はすごく重い。Bの方(日かげ) は軽い」と、みんなに教えてあげる。
指示1 この二つのジャガイモを見て、違いをノートに書きなさい。
実際に触らせるとなおよい。
 茎の太さのこと、子いものこと、葉の数、大きさ、色のこと、根のことなど次々と発表が続く。そのうち、Aは日なた、Bは日かげで育った物ではないかと話が進んでいく。
 正解を教える。やっぱりという表情である。
 そこで、次の発問をする。
 (カッターを取り出す)何すると思う? このたねいもを切ってしまいます(と言って、ロなたの方のたねいもを切り離してしまう)。さて、この子いもは大きく育っていくだろうか。
 こう問うと、「育つ」とか「育だない」と叫び出す。考えをノートに書かせる。この話し合いはおもしろい。指示一で出されたことをもとに、次々と話し合いが進んでい
く。その結果、「たねいもの役目はもう終わっていること」 「葉でデンプンがつくられて子いもは育っていく」という二点に考えが集約されていく。(※たねいも説を強硬
に主張する子供がいたら、切ったたねいもにヨウソ液をかけて見せるとよい。まったく反応しないのを見て、考えを変えていく)
 この場面については、合計三度授業をする機会があったが、たいへんおもしろい話し合いになる(原型は拙著『理科発問の定石化』に載せてある)。
 理科の場合は意表のつき方が二通りある。一つは、今、示したように現象提示とタイアップさせる方法。もう一つは、言葉だけで意表をつく方法。効果的なのは、やはり、
前者の方である。
② あいまいさをつく
「ウサギを正しく観察させる方法」などは、この代表的なものである。人間、その物をよく知っているようでも描きなさいなどと言われると、わからないものである。よくわかっていないなと自覚させると、次にはその物を真剣に見たり、考えたりする。
 二年「空気あつめ」、四年「虫の育ち方」などでも、この手法が有効に機能する。
③易から難へと構成する
学習には雰囲気というものが必要である。いきなり難しい発問をしては、解決できるものもできなくなる。子供たちの知ってる心を刺激し、雰囲気を盛り上げていく。その
勢いでもって、難の段階を乗り越えさせる。また、発問の連続性を考える時も、易と難のバランスを考えていくとよい。三年「じしやく」では、このことを特に意識している。
   
 向山洋一氏はオールマイティな方で、理科においてもすばらしい実践を発表されている。その中で、特に強く心を引かれたのは、三年「空気はちぢむか」である。私も一度
だけ三年生を担任したことがある。そして研究会の時、この授業を公開した(この授業は江部満・樋口雅子の両氏にも見ていただいた)。授業づくりにあたって、あれこれ資料に目を通した。しかし、どの実践報告も私の悩みを解決するものではなかった。悩みとは、「空気は縮む」という中心概念をつかませるプロセスに段差があることである。
 名案が浮かばず、私も過去の実践例と同様のプロセスで迫ることにたった。そのプロセスを示してみる。
① マヨネーズなどの空の容器を使い、的当て遊びをさせるi玉の有効性を確認させる。
② 玉の種類をかえで、的当て遊びをさせるI空気がもれないと玉の威力が増すことをつかませる。
③ プラスチ″クの筒を使い、玉を飛ばさせるI空気を押すと縮むことをつかませる。
 ところが、②と③がどうもスムーズにつながらない。大きな段差があるのである。モのため、③の授業は三段論法的で、少々理屈ぽいものになってしまう。
 このプロセスは不自然である。しかし、名案は見つから
ないまま過ぎていった。
  『理科教育』誌八六年二月号(明治図書)で新牧賢三郎氏が、向山氏の授業づくりについて紹介されていた。それを読んで驚いた。何とか苦労してつかませようとしている中心概念を、大胆不敵にも単元の頭に持ってきているのである。そして、なおかつ、ストレトに問うている。
 この授業の追試をしている方はたくさんいると思う。
 『理科教育別冊』誌胞12(明治図書)では、今井清吉氏が追試報告をされている。うまくいったということである。そうであろう。この方法だと子供が主体的に動く。発問は
最初の一つでよい。もういらない。活動的な三年生の特性を生かした見事な展開の仕方である。私が今後めざしていきたい授業の一つである。
 向山氏は、指導要領に必ず目を通すという。ここまではやっている人も多いだろう。すごいのはその後である。この読みとりを通して、何が大切であるかを的確に抜き出してしまう。そして、前述のような大胆な授業づくりをされる。これは、教材を本当に解釈する力がなければ、なかなかできる技ではない。
 向山氏は二年の学習とのつながりを重点にして、「空気はちぢむ」の授業方法を生み出された。これも一つの方法である。今後もこうした例はないかと、研究を進めていく
必要がある。
 ただ、理科の場合は系統性はあるが、その系統性に重なりの部分が少ない。たとえば虫の学習について見てみる。三年ではどちらかと言えば生態に重点が置かれ、四年では育ち方、形態が中心になる。五年になると、魚や水中の微生物というようにまったく異質な学習になる。だから、いつでも前学年とのつながりだけでは授業を仕組んではいけない。
 生活体験やそこから生じる意識をとらえて、授業づくりをしていく必要がある。
 向山氏の実践でよく追試をされるものに、四年「豆電球とかん電池」がある。ここでの学習スタイルは私の好みとするところではないが、それにしても目を見張らせられる
ことがある。
  「本質を見抜き、かみくだく力」であり、「子供を育て、生かす力のすごさ」である。
 こうした力は、向山氏が修業に修業を重ねて身につけたものである。一朝一タにして身につくものでない。
 でも、そうだからといって諦めることはない。何とか近づく方法がある。それ屯かなりの早道で。
  「追試」である。本気で向山氏の力を身につけたいと思うのなら、ただ文を読んで終わりとするのではなく、本気で追試をしてみるとよい。読むだけでは得ることのできな
い、さまざまなものが見えてくる。そればかりか、自分自身の力の向上となってはね返ってくる。このことは、多くの人の体験からも明らかになっていることである。
 -―「発問づくりの定石化」となると、まだまだ漠としたところが多い。「発問の定石化」と並行して考えていかねばならないと思っているところである。
     <旭川市春光町 北海道教育大学附属旭川小学校>

2013年1月23日 (水)

理科の導入指導=定石とプロのわざ (西村功)「授業研究」1987.9 No.315

-授業のゆくえと深まりを創るー
1 パターンの陥穽
 理科の授業を参観するごとに、自分もそうではないだろうかと、自省させられる。
 教師は、子どもに「わからせる」こと、「わかった」といわせることをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 教師は、子どもが「はたらきかける」ことをタテマエとしているが、子どもに「させる」ことをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 パターソ化されたような授業をたどってみると、それは明白である。
 ① 「この前どんなことをしましたか」
 教師が問う。しかし、子どもは印象に残ったことだけをを考える。そこで、さらに問う「そのとき、どんなことをしましたか」。さらに「もっと大事なことをしましたね」といっても「大事」という教師側の価値におののいたように、子どもは沈黙に陥ってしまう。
 「こんなこと」「もっとほかに」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こ’うなると、不確実にしたまま、「では」と「次段階」へとなり、あとは、活動だけ
があり学習のない授業になりがちである。
 ② 「この前、どんなことがわかりましたか」
 教師にとっては、本時への飛躍のために問うたつもりである。しかし、子どもは、はたらきかけたこと、そこに、あらわれたことだけを考える。そこで、さらに問う。「そのことはどんなこと」とか、「そのことから」と事象の意味づけを問う。子どもは「こうしたら、こうなった」という事実をいうだけで精一杯のことが多い。
 「したことで」 「たったことで」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こうなると「こんなことがわかった」はずということを強制・強要して、「つぎ」へと進行する授業になりがちである。
 ③ 「長びら」の設問貼り
 研究授業といえば、どのように問題をもたせるか、板書はどのよう。におこなうか、教師はさまざまに思い廻らす。
 模造紙を長く切り、そこに、マジックインキで教師の意図したことを書いておく、これが「長びら」である。
 「では、今日はこんなことを……」と、黒板に「長びら」が貼られる。
 子どもは、異様な目で見る。なかには「なあんだ。そうだったのか」とか「先生、もっとはやく出してくれたらよかったのに」ということさえある。
 子どもが問題を持つ学習に対し、「長びら」は子どもに問題を示す、与えるということを露呈している。
 ④ 「確かめてみましょう」
 教師は、子どもの学習活動が考えに根ざし筋道に立ったものでありたいとねがっている。子どものすることが確かな考えをもとにしたものでありたいのである。そこで、子
どもが「したい」 「みたい」というと「確かめてみましょう」という。
子どもの考えが十分に深められていない状態にあっては「確かめ」にはならない。また、たった一回だけ「する」「みる」では「確かめ」にはならない。
 教師の口ぐせのような「確かめてみましょう」は、慎重な指導のもとに、’子ども自身が心の中から吐き出してきたときこそ真のものとなるのである。
 ⑤ 「調べてみましょう」
 教師は、子どものおこなう観察・実験がしっかりとした観点をもつものでありたいとねがっている。また、条件に基づくものでありたいのである。そこで、子どもが「する」
こと「みる」ことを「調べてみましょう」という。
 ときとしては、導入時において話し合い活動が中断したままになったときさえ「とにかく調べてみましょう」という場面さえ目にする。さらに、子ども達が問題を意識できないときさえ「とにかく調べてみましょう」ということを目にすることがある。
 難渋した授業に、打開策として発せられる「調べてみましょう」は、何らの呪文にもならない。
 子どもにとっては「したい」 「みたい」というだけでなく、より精細に、より焦点的に目を見開くようになったときこそ真のものとなるのである。
 これらのほか、理科の授業においては、
「なぜだと思いますか」という「なぜ」
「予想をたてましょう」という「予想」
これなども安易に発せられていることである。しかも、授業における難渋を素通りしていくためのものでしかない実情はないだろうか。
2 物・こと・場を子どもが問う
 子どもも教師も、理科の授業の特徴は観察・実験にあるという。つまり「物」を対象にしたり「現象」を対象にしたりすることをいう。
 ところが、ときとして「物」や「現象」を見せないで、教師の問いかけからはじめていく授業を見る。ときには、わざわざ隠しておくことに苦心している授業さえある。
 難渋した話し合いの末、教師が「物」や「現象」を見せると、子どもは「なあんだ」とか「ほら」とかいったあと 「はやく見せてほしかったのに」と不平さえいう。
 プラックーボックスの手法でも「中を見せてほしい」というだけの授業がある。
 見せない、しない、の代わりに教師が問いかけても、子どもにとっては具体的にはならないのである。
 見せることによって具体的に問う。することによって具体的に問う。これが、子どもと対象とのかかおりをつくることなのである。
 見て、子ども自らが問う。することで、子ども自らか問う。理科における問いかけ・発問は、子どもと対象とのかかわりが大きな機能をもっているのである。
 本稿では、「磁石」によって考察しよう。
 ① 「物」がある授業をつくる
 子どもは磁石を見たとき喜ぶ。「磁石だ」とか「こうやって遊んだりとか「こんなことができる」とかいう。それぞれ自分なりの磁石についての経験をもとにいう。
 こうなると、子どもの見た磁石は単なる物体ではなく、さまざまな現象をひきおこし、さまざまなはたらきをひきおこすことをイメージにもったものになる。
 「物」こそ、子どもの情意をかきたて、子どもの活動を促し、さまざまな試みを誘う鍵なのである。
 ② 「こと」(現象)がある授業をつくる
 子どもの目の前に磁石を置くだけでは授業にはならない。それは、磁石だけでは何もおこらないからである。
 このようなとき、子どもは「こうしよう」とか「こうしたら」という。「物」だけでは授業にはならないのである。
 磁石にそっと近づけた鉄くぎが、とびつくように引きつけられると驚く。どこがいちばん強くつくか。つくこと、つまり「こと」という現象が対象になっていく、これが、
一年生「じしやく」の学習とされているのである。
 磁石についた鉄のくぎに、さらに鉄のくぎがつき、鉄くぎが繋がってつく。つくことから繋がってつくことに子どもは目を見張る。より深まった「こと」という現象が対象
になっていく。これが三年生「じしやく」の学習とされているのである。
  「物」そして、物による「こと(現象)」があってこそ授業となるのである。
  「こと」こそ、子どものはたらきかけを促し、対象を考え、認識を深める鍵なのである。
 ③ 「場」(状況)がある授業をつくる
 子どもは磁石でいろいろなことをしようとする。しかし主たることは「つく」かなということをする。
 磁石に何本もの鉄くぎが繋がってつく。磁石の力は強いという。ここでも「つく」ことが関心である。
 ところが、ここへもう一本の別の磁石がはたらきかけると局面は大きく変わる。
 もう。一本の磁石の端を近づけたとき、繋がっていた鉄くぎが引きつけられるときと、繋がっていた鉄くぎが退くときとがあるのである。
  「引きつけられること」と「退けられること」という、「こと」の対立がおこるのである。こうなると、単独の「こと」ではなくなり、「こと」と「こと」とが相乗してくることになる。
 これが、新たな「場(状況)」となってくるのである。
  「物」とかかわる授業から、「こと」とかかおる授業、そして、「場」とかかおる授業になったときこそ、ひろがりと深まりとなっていくのである。
 授業では、このように「場」をどのよう・に構成するかがたいせつなのである。
  「物」を見せる。「こと」を見せる。そして、「場」を見せることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「見る」ことがなくては学習にはならないのである。
  「物」によってする。「こと」をする。そして、「場」とかかおりをもってすることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「する」ことがなくては学習にはならないのである。
 身近な自然から子どもが学ぶという授業は、自然における「物」、自然における「こと」、自然における「場」から創ることなのである。
 具体的事象から子どもが学ぶという授業は、具体としての「物」、具体としての「現象」、具体としての「場」から創ることなのである。
3 子どもに「自問」の場をつくる
 理科の授業では、観察・実験が重視される。
  「理科だから、どんな観察・実験させようかな」という教師のひとりごとは、観察・実験のない理科の授業はあり得ないという潜在意識をあらわしている。
 これが、「物」 「こと」 「場」として工夫される。
 そして、さらに教師はいう。
  「子どもは、どういうかな」
という教師のひとりごとは、子ども自らが「問う」ことの重視をあらわしている。
 そして、「こういうだろ。う」ということ以上に「こういってくれたらよいのだが」と期待する。さらに、「ぜひ、こういわせたい」ということになる。
  「物」「こと」「場」と子どもとのかかおり、子どもの内面をこのように創りたいということを、「こういわせたい」 「こう問わせたい」というのである。
  「こういうことを、いわせよう」
という教師の構想は、いくつかの段階をもつ。磁石に繋がってつく鉄くぎ。三年生の子どもに、別の磁石で鉄くぎの「横取り」をさせる。
 そして、子どもが「問う」ことを創る。
 ① 「できるはず」だといわせる
 子どもは「したい」のである。そして「できる」から行動するのである。そして「できるはず」という考えによって行動するのである。
`「したことがあるから」 「できるはず」という。つまり学習経験があるから「考える」 「する」 「しよう」が結びついてくるのである。
  「できるはず」ということは、経験を思いおこす。経験をもとに考えをまとめる。経験をもとに体験していく。既知から未知をたどる糸口になるのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎの「横取り」は、鉄のくぎは磁石についた、磁石で鉄のくぎを引きつけたという経験から「できるはず」というのである。また、磁石は鉄
を引きつけるという知識から「できるはず」というのである。
 したがって「できるはず」ということは、「自問」であり「自答」なのである。
 ② 「おや」「おかしい」といわせる
 子どもは、できないときでも「したい」のである。だから、できないときでも「そうか」 「それでよい」とはいわない。ときには反復してみる。そして、「おや」 「おかしい」という。
 「できるはず」が覆った驚き、不満。そして、「できるはず」とは別の事実として認めはじめたとき「おや」 「おかしい」というのである。
 「おや」「おかしい」ということは、自分の意識とのずれの発見であり、未経験の発見である。そして、既知のなかの未知の意識化なのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎに、別の磁石を近づけたとき鉄くぎは逃げるように退く。子どもにとっては、引きっけられ、横取りされるはずなのに現象はまったく逆に
なる。驚きであり、不満であり「おや」 「おかしい」ということになる。このことは「なぜか」 「どんなわけで」という意識と共存しているのである。
 したがって「おや」 「おかしい」は、「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ③ 「こうしたら」「こんなとき」といわせる
 子どもは未知の事象に出会うと驚く。そして、考える。「どうしても、こうなるのだろうか」と、もう一度やってみる。そして、反復する。
 反復するときの子どもは慎重である。「こうなるのは」「どうしてか」ということと、「どうしたときか」を見ようとする。
 子どもの慎重な試みは、時間を細分するように順序を意識して進行していく。「いつ」 「どんなとき」かを慎重に追究していく。また、空間を細分するように部分を意識し
て進行していく。「どこ」 「どれで」かを慎重に追究していく。
 磁石に繋がってついている鉄くぎが、別の磁石を近づけたとき逃げるように退いたり、逆に、とびつくように引きつけたりする。「ほら」 「やっぱり」だという事実の肯定
は、「この」磁石で「ここへ」近づけたという「こうしたら」「こんなとき」ということになる。このことは、発見であり、現象や操作をもとにした帰納・帰結である。そし
て「ここ」「このとき」には「わけがある」が共存するようになるのである。
 したがって「こうしたら」 「こんなとき」は、帰納から意味づけをしようとする「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ④ 「これでもなのか」「これでなのか」といわせる
 子どもは、新たな事実に出会うと、これをもたらしたものに驚く。そして、そのものについて考える。そのもののはたらきとして認める方向で考える。「これで」 「こんな
ことが」おこるのか。「これに」 「こんなはたらきが」あるのかと考える。
Photo
磁石に繋がった鉄くぎが、別の磁石によって逃げるように退いた事実、これは、図Aでは「もう一つの磁石によっておきた」「もう一つの磁石のはたらき」として意識され、もう一つの磁石の「これでなのか」ということになる。
 子どもが、ここまで追究してくると、近づけた磁石だけの「これでなのか」という終結にはなりにくくなる。それは、鉄くぎ全部とってしまったらどうかということである。そして、鉄くぎがなくなった磁石と磁石とではということである。
 磁石と磁石での「これでもなのか」と、子ども自らがきりこんだ「自問」を創る。
  「これでなのか」もしれないという子どもの意識があってこそ、根本に迫っていくことになるのである。
 そして、「これでなのか」ということは、「これでもなのか」と、これまで見てきた事象とつながりをつけていくことになるのである。
 磁石に繋がった鉄くぎと磁石とで見たことが、磁石と磁石とでも起るのだろうかというとき、「これでもなのか」という意識とともに、磁石どうしなのかもしれないという
 「これでなのか」もしれないという意識がある。
 さらに、もっと別の磁石どうしの「これでもなのか」と拡がり、それらの同一性から、磁石ではという[これでなのか]という深まりをもつようになるのである。
 したがって、「これでもなのか」 「これでなのか」は、焦点化していく「自問」、一般化していく「自問」になっているのである。
 子どもに自問の場を創り、自問の内容と質を創っていくことは、授業の深まりを創ることである。
  「できるはず」だという既知から未知への「自問」。
  「おや」「おかしい」という未知から疑問への「自問」。
  「こうしたら」「こんなとき」という帰納から意味づけへの「自問」。
「これでもなのか」 「これでなのか」という普遍から帰納への「自問」。
 子どものつぶやき、問いかけが、内的活動の深まりそのものとして力強く行動をひきおこさせたとき、授業は活気に満ちたものになり、子どものものとなるのである。しか
も、行動の軌跡とともに確かな知的生産となるのである。
 子どもに「自問」の場を創らせることが授業の布石となるのである。
4 教師が求め創り続ける授業
 理科の授業を参観したあと、研究協議会がおこなわれる。その研究協議会では、授業者自評がおこなわれることが多い。
 さて、自評をたどってみよう。ときとして、「昨日はうまくいったのに、今日はだめでした」
「同じ物で別の学級でやったときはうまくいったのに、今
日の学級ではだめでした」
「同じ教案・指導計画・展開案で、別の学級でやったときはうまくいったのに、今日の学級ではだめでした」
などを聞かされることがある。これらには、「うまくいくはずだった」という考えがうかがわれる。
 では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいかなかったのか」同じ物・同じ計画だったはずである。
  もっと、つきつめていえば、「学級がちがえば」 「授業 にちがいができた」のはなぜなのだろうか。学級のどのよ。うなことによるのだろうか。
  どうやら、授業は外的条件だけでは決定しないようであ る。
  さらに、自評をたどってみよう。ときとして、
 「はじめから、あのところまでうまくいったのに、あのあ
 とからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなことをしたので、あのあとからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなこ とをいい出したので、あのあとからだめでした」
 などを聞かされることがある。これらにも「うまくいくは ずだった」という考えがうかがわれる。
  では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいか なかったのか」そこには、あのようなことをする子どもが いないはずだったのに、いたのである。また、あのような ことをいう子どもがいないはずだったのに、いたのである。
  してみると、教師の考えていた域とは別の子どもがあっ たのである。どうやら、教師の子どものみえ方に根源があ りそうである。
 「うまくできた学級」と「うまくできなかった学級」それは、別々の学級である。そして、別々の子ども達である。
 A学級とB学級での差異、それは、どのような差異だろうか。
 学級という集団を成員にもどしてみると、個別的に差異のある子どもの学級集団である。
 学級を学ぶ集団としてみたとき、学び方に差異のある学習集団である。
 学級を教師と子どもの集団としてみたとき、担任教師に若干ながらも差異のある人間集団である。
 学級を育ちつつあるものとしてみたとき、育ち方に差異のある成長集団である。
 つまり、学級としての内的条件に差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 また、子どもとしての内的条件にも差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 同一結果に導き、同程度の成果に達するには、外的条件のほか、内的条件の背景が同条件に整備されていなければならないのである。
 学習経験や生活経験。子どもひとりひとりの個性と集団とのかかおり。さらに、情況などが学習指導において重視されるのは外的条件・物的条件だけで決定しないからである。
 「定石」ということについての定義と条件具備は、教育においては極めてむずかしいことである。
 「定石」存在、「定石」重視の囲碁や将棋においても、定義や条件具備はむずかしいのではなかろうか。
 それ以上に注目しておきたいことがある。囲碁や将棋においての「定石」は多数であるという実態である。しかもさらに、新しい「定石」が創られ発見されていく実態である。
 それは、つねに「定石」を超えた布石を求め、「定石」を超えた棋譜を創っていく情熱と工夫によるものである。 同一教師であっても、経験の程度によって授業に差異があらわれる。また、担任した学級のようすにょって授業に差異がある。モの中で、教師はつねに新たな自分の指導観を創り上げているのが実態ではなかろうか。
 自ら「定石」を創り、「定石」を創り変えていく教師で
ありたい。
 ただ、教師はつねに自分の授業を研究報告として公表し合い、それぞれの、「定石」をそれぞれにとりいれ、自分の授業の創造という[定石]化に効率を求め合いたいものである。
        <東京都板橋区高島平 高島第七小学校>

理科工作の力量どうみにつけるか(実野 恒久)教育科学「理科教育」1983.12No.244

 「理科工作」ということぱは,「図画工作」と異ってまだ市民権を得ていない.理科学習では「作る」活動が重視されていて,理科の製作活動を理科工作と呼び慣わしている.落ち葉遊びや石ころ遊びなど天然物を使う遊びから,ベルやモーターの工作,実験器具装置作りなどを含めて,理科工作という.
 図画工作では色・形・素材を対象としているが,理科工作では構造・機能・素材を対象にしていて,そのねらいは異なっている.殊に理科工作は,理科教育の一環であって,工作の過程に科学的思考と科学的技術の指導が大切であることは,いうまでもない.たとえば風やゴム,おもりで動くおもちゃ作りは,理科工作では作って動かしておしまいであってはならない.そこに子どもは,何に気づきどのように工夫を重ねていくか,そして初歩的であるとはいえ原理がわかることに,理科工作はねらいをおいている.
 子どもと科学技術をドッキングさせるには,動くおもちゃを手作りさせるのが最も効果があるというのが,私の年来の主張である.かつて付属小学校の教諭をしていたころ,担当クラスの子どもの過半数が,工学や理学の学位を持って今第一線で活躍してくれていて,その動機は小学校理科における工作の楽しさであったという.指導の工夫によって,子どもは理科工作の楽しさに熱中するものだ.毎年夏休みに兵庫県立嬉野台生涯教育センターで3泊4日,県下から理科工作の好きな小学生100人が集まり,毎日朝9時から夜
9時まで創作教室を開いているが,子どもは飽くことなく次々と理科工作の課題に挑戦、そのすさまじいパワーに驚かされる。子どもってこんなもんだ。
1 アイディアと工作技術
 昨年の8月に読売新聞から「ダンボール動く手作りおもちゃ」の連載を頼まれて四苦八苦.先ずダンボールの特性の分析吟味からはじめ,接着剤の選択試験や工作用具の検討,それに,なじみやすいアクリル系塗料の比較実験と,例によって基礎知識の獲得に努めた.次にどんな構造・機能のおもちゃを作るべきか,それによって子どもは何かわかるか,しきりにノートに書いてアイディアをおり重ねる.この道すじが理科工作では大切だと考えている.
 それぞれ異なった機能を持つ動くおもちゃを,10点ほど作って紹介した.その反響はかなり大きく,新聞を見たと母子連れが次々と来宅,もっと他にかいか,幼児に作れたいか,作り方のコツを教えて欲しいなど,母親の熱心さに感服した.小学校の先生が誰一人来られなかったのは残念だ.
 それらの期待にこたえようと,9月1日から,1日に1点の手作りおもちゃを工夫して工作する課題をたてて挑戦することにした.徹夜して朝方にやっと思うような動きができたことも再三である.
 アイディアは昔から,鞍上(今でいうなら電車の中で),枕上(寝ながら),架上(便所の中で)で生まれるといわれているが,全くそのとおり.工夫するから工作といい,考作するから巧作になり好作になる.そのくりかえしり1年を続けた.数がたまるとマニアになり,工作に酔っぱらいやすくなる.このことは絶えず警戒し続けた.各テレビやラジオ,新聞にこめことを紹介されると,さらに継続せざるを得なくなった.
 数多く作り続けていると,工作技術が著しく上達した.技術が進むと,新しいアイディアが自然と生み出されてくる.アイディアと技術が相互作用をするものだということは,経験から悟った智慧である.
 これをすすめられてまとめたのが「ダンボールおもちゃ(保育社カラフブックス)」で,小さな本で十分に述べられなかったが,このいきさつについて紹介したつもりである。
2 先ず己をしてつかしむべし
 自分が実際に体験して得た経験と智慧は,あらゆるところで必要に応じて取り出すことができる.これを「身につけた」というのだ.
 理科工作の指導では,特にこのことが大切だろう.
  「己をして先ず,なすべきところにつかしむべし,しかして後に,他人に教うべし.心ある者は,かくて煩(わずらう)ことながらん.(法句経)」
 自分が実践し実証し確信して救われてから,人に教えたならば,きっと安心して事を成しとげるであろうという.いささか説法くさいが,真理だと思う.先生とは,こうありたいものだ.・
 夏休みの自由研究や理科工作展は,年中行事として各地で花ざかりである.
 大阪市西区日吉小学校も理科工作展を企画したが,動くおもちゃ,光るおもちゃ,音の出るおもちゃと課題をしぼった.半数の子どもが参加してくれればと願っていたが,全児童が思い思いの工夫工作を持ちよって,先生方は予想以上の内容に感動され,あの子どもにこんな工夫ができたのかと,子どもを見なおしていられた.というのは,子どもに課題を出す以上は先ず教師がやってみるべきだという年来の学校方針で,まず丁先生の動くおもちゃ展」を開いた.それに得意な先生は水を得た魚のように,不得手な先生は仲間のヒントを得てそれなりに楽しい工夫展になった.それを見た子どもは,
 「うちの先生はようやるな.先生に負けないアイディアを出そう」と,新鮮な期待にあふれ,先生も自分の経験と智慧で,適切な助言ができたようだ.
 校内のこの工夫工作展は大きな反響を呼び,講堂いっぱいに展示された工夫工作に,父兄の参観も相つぎ,殊に児童全員による評価・投票により各賞が選定された,子どもは友人仲間から認められることが誇りのようだ.テレビがこれを紹介し,父兄の学校への関心と期待は一挙に高まったという.子どもは「次はいつ開くのか.こんどはもっと工夫して.」こうして自分で課題を持ち,いつも構えていくことに大きな効果がある.
 同校ではまた,フライティングカーニバルを催し,紙グライダーやプロペラ機を飛ばし,滞空時間や飛行距離,機体のバランスの美しさなどを競った.例によってまず先生方がそのことを体験しあい,休み時間はそのことの工夫に熱中され,子どもは先生に負けないぞと興奮状態になったという.
 学校はイベント屋であってはならないが,「子どもの可能性を育てる」という言葉の美しさに酔っているだけでなく,まず何をなすべきか,それにふさわしい動機づけや刺激が必要であろう.それには丁先ず己をしてつかしむべし」が大切である.
 3 教科書の理科工作はおもしろくない
 こんな声を,子どもからも先生からもよく聞く.私は昭和23年以来,理科検定教科書を書き続けてきたが,昔に比べると理科工作の工夫は,ずいぶん進んだものだ.しかし教科書の宿命があって,一般図書のように理科工作をおもしろおかしく書けない.ともすると,本末が転倒しやすくなりやすい.理科学習での工作は,それがスタートであって,そこから子どもが自由に,工夫創作への翼を広げて発展させるものである.どのように翼を広げさせていくかは,教師の力量にまつところだ.
 理科工作は,単なる工夫やアイディアであってはならないことはいうまでもないが,これらを軽視してはそれこそ,子どもにとっておもしろくないものに終りやすい.どのように工夫改良していくか丿工夫する技術」を身につけたいものである.
 工夫する技術は,体験的に身につけていくものであり,人によってそのパターンも多様で,一ロにいえるものでない.「あなたはどうして次々にアイディアを生みだすのか」とよく尋ねられるが,その答はない.ただ体験からいえることは,必要さに対決したときに,今までにこだわらないで,いろいろに視点を変えて,見たり考えたり扱ったりするくせが身についているからかも知れない.物を見ても 自分ならこう考えると構える.
 近ごろ,各市教員センターの活躍が盛んで,毎月の事前教材研修会が充実・してきたレこれらはできるだけ積極的に参加すべきである∠雑用に追われて忙しいが,それらは家に持ち帰ってもできることで,研修担当者はそれなトりに工夫した内容を紹介しているはずである.まず見て資料を集めることである.私も大学のあいまを見て,各市のセソターヘ参観に出かけるLそ亡ではすばらしいヒントを得られることが多い.自分だけで考えていると,行きづ壇った壁を破りにくいが,他のヒントによって大きく開けていぐ市のセンターによっては,マンネリ化していて魅力に乏しいというのか,参加者が少なくなっているところもあるが,それとて反面教師として得るものがあるはずである.まず見歩いて資料を集めることが,理科工作の力量を身につける手近な方法であろう.
 過日もあるセソターでの動くおもちや教材研修会に参加したが,担当者が徹底した材料を用意して,次々とおもちや作りをさせられた.参加者はただ与えられたキットを組み立て,たくさんのお土産をもらったというに過ぎなかった.どうしてこの構造にしたのか,なぜこの素材を選んだのか,子どもに指導してどんな反応であったのか,自分の経験的苦労の紹介が欲しいと感じた.参加者は担当者の苦労の擬似体験でもよい,工夫していく過程や手段を知りたいと願っているものだ.               ‥
 また,理科教育誌などには,工夫した理科工作例の紹介記事が多い.これらは見て終らさないで,自分で実際に真似てみる.いねば追跡実験である。この体験の積み重ねが,自分の力量になっていく.しかも自分ならどうするか,もう一ひねり工夫できないか,絶えず考えていく.もし他の材料に置き変えたらどうなるか,つけ加えるべき物や取り除べき物はないか,他の場合に当七はめられたいか,理科工作の工夫はいわば思考訓練といえる.
 韓国の教育委員会からコソタクトがあったが,理科工作の研究にエソジソがかかったらしい、いずれ日本に追いつくのは、現代工業生産だけではないようである。
 4 理科工作の素材を探す楽しさ 
 適切な素材が見つかると,理科工作は一段と前進する.素材の認識不足から工夫に行きづまっているときに,それを見つけ得たときの喜び牒作った者でないと味わえない.理科工作の力量をたかめるには,まず,素材を探す楽しさを体験することである.
 枚方市香陽小学校は今年から,理科の教材教具研究に取り組むことになった.「東急ハソズヘ行った人は?」に誰もいなかった.私鉄線の違いからだろう.近ごろ手作りクラフトの流行で,各地に大なり小なり,クラフト材料店が多くなってきた.これらには理科工作の素材となる必要なものが揃っている.東京や大阪の東急ハンズはその最たるもので,大阪天王寺のそごうホップなど,大型店も次々とオープンしている.早速に東急ハンズに出かけた先生方は丿これは教材に使えそうだ,これで理科工作ができる」とあまりにも買いこみすぎて,帰りは困ったという.
 大阪各市のジョイフルアサヒや神戸のサンプラザ,奈良のオレソジハウスなど専門店も多いが,百貨店やスーパーにもタラフトコーナーを常設している.また台所コーナーや日曜大工店など,探せばどこにでも見つかる.これらを知的好奇心を持って,暇のあるときに見てまわることである.理科工作の力量は,どこに何を売っているかを知っていること.必要なときに適切な素材があって,理科工作は果世るものである.
 逆に何かに利用できそうな素材を手にとって見ていると,理科工作のアイディアがひらめく.経験の浅いころは,この方法も効果がある.
 果して香陽小学校の先生方は,各学年で競ってすばらしい教材教具が生み出されてきた.理科工作が不得手だという方の多くは,素材の認識不足によることが多いようだ.キット工作やプラモデルなど,与えられたワクの中で工作していると、自分の考えで自分が作る自己実現を失わせるのだろう。ぜひ素材を探す楽しさを体験したいものである。
 5 今の子どもは不器用でない
 子どもは不器用だというのは,新聞や雑誌などのマスコミにおどらされているので,実態はかえって昔より巧みになっている.鉛筆が削れないというのは,電動鉛筆削り機が普及して小刀を使う必要がなくなったために,訓練の機会が少なくなったためだろう.江戸時代の子どもが現代の大人は,わらじも編めない不器用さというのと同じだ.便利な工具が出まわっているとはいえ,それらを正しく使い慣れる訓練が必要である.子どもが手作りをする必然の立場や必要の意識へ追いこむ指導が大切である.それには理科工作が最適だといえる.素朴な材料が手を加えられて,次第に自分の考えた物へ変身していく過程に感動を持ち,思ったような動きをしたときの喜びを体験させたいものである.
 各地のカルチャーセンターや理科工作教室で,実際に子どもたちに指導してみて,適切な助言や支援があれば,子どもは自分の発想を確実にものにしていくことを経験した.この適切な指導は,並太低でできるものでないが,先ず自分が工夫工作してみて,子どもならどうするだろうかを考えていくと,自然と得られるものである.まずコツを会得して,そのコツを子どもに助言することが,理科工作の指導のコツである.教師の体験と思考と知識が経験となり,その積み重ねによって,理科工作の技術を身につけることができる丁理科工作の力量,どう身につけるか」の問いに対して,その答はこれしかないご私などは工作技術が拙く生まれつきの不器用だと嘆いているが,理科工作に意欲を持って次々に挑戦していけるのは,子どもに理科指導をしていく上に,必要で欠くことのできない価値を認めたからである.ここでは理科工作論を述べるよりも,私の体験から得たことを紹介しようと考えた.
                         <神戸女子大学教授>

2013年1月22日 (火)

教材教具開発の力量どう身につけるか(井出 耕一郎)教育科学「理科教育」1987.12No.244

 1 教材・教具とは何か
 教師が授業をするにあたって,教材を研究し,教具を活用できなければ,その授業の目標を達成すること:ま困難である.そして教師の中心的な仕事が子どもたちの学習指導にあるとすれば,教材・教具を十分に活用できることは教師のもっとも大切な能力の一つということができよう.
 ところで教材・教具という言葉で教具の方は比較的わかりやすいが,教材という言葉の意味内容はあまり明瞭ではない.教材は教えるために必要な材料という意味を持っているが,この材料という言葉を広く解釈すると,教育に必要な資料,施設の一切を含めることができる.十もう少し狭くとって,学校教育法第21条をもとにすると教材とは教科書,それ以外の図書,その他の教材とされている.このその他の教材は文部省の教材基準に示されたもめを見ると各教科の共通教材として,スライド映写機,オーバーヘッドプロジェクター等の視聴覚機器,各教科の教材としては理科では理科教育振興法による設備規準に.基づくものとされており,これは明らかに教具を含めている.
 また学校で普通教材研究という場合には当面の教授対象となる特定の単元についての指導内容やそれに必要な資料と考えられている.そしてこの場合も教科書,実験材料などを含めて考えることが多い.
 このように教材という言葉を広く解釈して使用することは,ある意味では便利であるが,教材・教具の研究や開発を考える場合,それぞれをより限定して扱った方が意味が明瞭になって考えやすい.
 ここであげた教材の中に,教授・学習過程において教師の立場からいうと指導内容,子どもたちの立場からいうと学習内容に関係するもので,物体や物質でない情報的なものと,物体や物質でできた具体的なものとがある.そこで,この具体的な物体あるいは物質からできているものを教具,情報的なものを狭い意味で教材とすると,その区別がはっきりしてくる.つまり教材とは次のようなものである.                .
 「教師が教育目標を達成するために,自然の事物・現象の中から適当と思うものを選択し,これを指導に適するように構成した具体的な情報的内容を教材という」ここで具体的な情報的内容としては,教科書の記載内容や生徒実験の内容,視聴覚教育におけるスライドやビデオテープ等の内容,演習問題などが含まれる.
 理科では自然界の事物・現象を扱うが,これは一般には無数にあって,そのまま直接生徒に提示しても理解されにくいものが多い.そこでこれをある教育的意図のものに構成することによって理解されやすくなり,子どもたちの活動を促すことができる.このなまのままの自然の事物・現象を素材といい,教育的意図のもとに指導に適するように構成したものが教材である.この素材を教材にかえることを素材の教材化というが,これは教材開発の重要な場面になる.
 教具は物体や物質でできた具体的なものといったが,別のいい方をすると教育に必要な物的資料および用具ともいえる.理科教育では観察や実験のために多くの教具を使用するが,その種類は他のどの教科より多いと思われる.
 その点でも教具の活用,開発は理科教師の大切な仕事である.
 ところで教材を具体的な情報的内容いわゆるソフトなものとし,教具を物的資料及び用具いわゆるハードなものとするとこの両者は一応の区別がつくが,同じものでも見方によって教材になったり教具になったりすることがある.スライドのフィルム,0HPのTP,VTRのテープなどはその内容が教育的意味をもてば教材といわれるが,物として見れば教具である.生物の観察や実験に使用する動物や植物,地学で扱う岩石や鉱物√化学で扱う薬品などは通常教材といわれるが,これは観察や実験に使う教材という意味でいわれるので,上の分類からいえば教具に入れるべきであろう.教材と教具はひっくるめて教材教具として扱われることが多いが,はっきり区別して扱うことは可能で、ここではそのように扱うことにする。
 2 教材・教具開発の必要性と開発の視点
 わが国では文部省で作成公示された学習指導要領で,その教科の指導内容が小学校,中学校,高等学校それぞれに応じてきめられ,これに従って具体的な教材として教科書が民間会社によって作成される.この教科書はその編者または著者,それぞれの考え方に基づいている昿基本的には全国的な一般の指導に適するようにつくられている.
 教師が授業をする場合,一度はなるべく教科書に忠実に従ってやってみることをすすめたいが,これは教科書の著者の意図を理解し,自分の指導に役立てるためである.しかし,やってみるといくつかの点でよりよい方法があるのではないかという気がすることがある.これはさきにも述べたように,教科書は一般的な児童や生徒を対象として,一般的な教師が指導することを想定しているが,実際には特定の教師が特定の学校で,特定の児童や生徒を対象として指導しているからである.もちろん教師は教科書に示された教材研究を行って,自分の受け持っている児童や生徒の指導に適するようにしていくか,教材によっては教科書と別の内容のものを考えた方が,指導上有効であると考えることがある.理科の場合,物理的教材,化学的教材でもこのようなことがあるが,生物的教材や地学的教材ではその地域の特殊性をうまく利用できるので特にその傾向が大きい.また教材を研究しているうちに,新しい指導法を考えたとしよう.これに適するような教材は今までのものと異ったものの方がよいとすると,新しい教材を工夫しなければならない.このように教師が教材の研究を行っていると,それをもう一歩あるいは二歩進めた教材の開発を試みる必要性にせまられることがある.そこで教材開発はどのようにするか,その視点をあげてみよう.
 教材開発は教材研究の延長上にあると見られるので,その視点は教材研究とも関係があるが,次のようなことが考えられる,
 1 指導目標を明らかにして,その指導のためにどのような教材が適切であるか考える.
 2 教材の内容や配列が児童や生徒の発達段階を考え,その思考の流れにそうように留意して開発する。
 3 教材が自然科学の基本概念とどのようにつながっているかを検討して開発する.
 4 教材が科学の方法や探究の技法(Process skills)の何の指導に適するかを考えて開発する.
 5 新しい指導法を考えた場合,それに適するような教材を開発する.たとえばプログラム学習を計画した場合,生徒用のプログラムを開発することなどである,
 要するに教師は自分が児童や生徒に何を指導したいのか,その目標をはっきりとらえて,それに適した指導法を考え,もっとも効果的と思われる教材を開発していくようにするわけである.
 次に教具の開発であるが,理科は学習活動に多くの観察や実験を取り入れており,またそうしなくては学習効果があがらない.そこで理科教育振興法乃設備基準にもあげられているように,非常に多くの種類の教具が市販されている,これらを目的に応じて使いこなすことは理科の教師に必要な能力の一つである.そこで実際にこれらの教具を使用してみると,いろいろと不満足な想いをすることがある.これは市販の教具はていさいよくできているが,商品価値を高めるために不必要なものがついていたり,一般性をねらうあまり万特定の目的には使用しにくかったり,生徒実験用として多数そろえるにはあまりに高価であったりすることがあるからである.また教具はあくまでも教材の中に組み入れて使用するものであるから,新しい教材を開発した場合それに必要な教具は市販されていないことがある.
 このような場合,教師は適切な教具を自分で開発していかねばならない.また,教具の開発は教材の開発とともに教師の創造性が発揮されるところで,教師が開発し自作した教具を学習指導に使用することは,児童や生徒の興味を刺激し,充実した授業を行うことができるだけでなく,・児童や生徒の創造性の開発につなぐこともできる.
 いわゆる自作教具は経費の不足を補ったり廃物利用的な意味もあるが,もっと積極的に授業の効果をあげ,作成する教師はもちろん使用する児童や生徒にもよい影響を与えるものである.しかしこれは市販教具が価値がないというのではなく,自作教具にはない長所(たとえば測定器具の精度は自作のものよりはるかに高い)も多いので,それを活用するとともに教師の開発した教具で補っていくことが望ましい.
 教具の開発の必要性は以上のような点から考えられるが,開発の視点を次にいくつかあげてみよう.
 1 教具は教材に基づいて使用されるものであるから,先ず教材を十分に研究して,指導内容に適したものとする.         j
 2 構造が簡単でわかりやすいものにする.
 3 生徒が使用する教具は,使いやすくて丈夫であるごと.
 4 経費ができるだけかからないもの 廃品利用も考える.
 5 一般に入手しにくい特殊な材料を使用することは,是非それでなければならない場合以外はさける.
 6 あまりに多目的なもの,特殊な目的に使用するものはさけた方がよい
 7 定量的な実験に使用するものは,必要な精度を与える.
 3 教材・教具開発の力量をどう身につけるか
 教材・教具の開発は理科の教師にとって必要な能力であるが,これも人によって得意な人とそうでない人とがある.それではどのようにすればその力量を身につけることができるか,先ず教材について考えてみよう.
 1 従来の教材について,その指導目標,指導方法を十分に研究する.教寸詞発は教材研究から始まるものであるから,従来のものの意図,長所・短゛等を十分に研究してそれの改良,あるいは新しいものを工夫する.
 2 自分自身の指導目標を明確にし,その目標が科学概念の指導か,探究こ過程か,それともこの両方かを考え,それによって教材を開発する.
 3 指導目標に対して,どのような素材が教材になり得るか考える.この場合,その地域に関係の深いもの,あるいは特有の素材を教材化することはムヽ結果を生むことが多い.
 4 指導目標を達成し,児童,生徒の関心をひくような観察教材,実験教建.視聴覚教材等にどのようなものがあるか考え,必要に応じ開発する.
 5 素材を教材化したらどのような指導が可能であるか考える.たとえば食塩と水とを使ってどのようなことが指導できるか考えてみるなどである.
 6 理科教育,自然科学関係の雑誌,専門書,児童・生徒向けの科学関係こ言物等を見て教材開発のヒントを得る.
 7 学校内外の研究授業や研究会等に参加して,他の教師の教材観や教材研究の実態を知り,自分の教材開発の資料にする.
 8 新しい指導法を工夫し,それに適するような教材を開発する.たとえ科学史を導入したいと思えば適切な読み物をつくり利用するなどである.
 9 科学博物館や展覧会等を見学すること仏教材開発のヒントを得るのに役立つ.  
 以上あげたように教材開発は,自分の指導目標を明確にして,何を指導したいかをつかむことが第一で,次にそれに適した教材を素材から組み立てていくのが基本である.そして常に教材開発の眼ですべての素材を見るように努力することが必要で,これが同時に教材開発の力量を身につけることになる。
  次に教具開発については次のような方法が考えられる.
  1 指導目標と指導方法√教材との関係をよく考えて,どこでどのような目的に使用する教具かという立場で考える.
  2 市販の教具を使用してみて,そのどこを改良すればよいか考える.
  3 今まで使用されている教具を別の目的に使用できないか考える.
  4 今まで使用されている教具の部分を利用したり,他と組み合せて使用することを考える.
  5 今まで教具として使用されていない材料や薬品等を使用して,新しい.教具を工夫する.たとえば使い捨て注射器で手動式真空ポンプをつくる(石井聖昭・昭和59年度東レ理科教育賞)などがある.
  6 家庭用プラスチック容器等の廃品,市販の台所用品,玩具などを教具 として利用できないか,常に考える.使用ずみ容器なども同形のものが数多 くあると意外と役にたつことがある.(フィルムケース等)
  7 新しい指導法や,教材を工夫したとき,それに適合する教具を工夫する.たとえば化学実験にセミミクロ法を取り入れたとき,実験器具を小型で 使いよいものを工夫するなどである.
  紙面の都合で具体例をくわしくあげられなったが,個々のものについては 理科教育関係の雑誌に関発例がのせられていることが多く,東レ理科教育賞 授賞作品集なども参考になるよ         <千葉大学教育学部講師>

授業を組立てる力どう身につけるか【中学校】(左巻健男)教育科学「理科教育」1987.12 No.244

 はじめに

 関口芳広さんという20代つひとから手紙をもらった.法則化運動に参加している若者である.彼は,私の著書を読んでの感想をくれたのである.
 そこに,「ぼくは,先生より1O歳芳い.10年たったら,先生を追い抜きます」と記されていた.
 私は,新任のころ,科学教育研究協議会の“授業熱中中年“の方々に出会った.彼らは,そろそろ定年を迎えたり,定年間近になっているが,今乱授業への意欲ぱおとろえていたい.いわば,理科授業キチガイである.
 彼らを追い抜こうとは,全然思わ々かった.追いつきたいとは思った.彼らのように,いつまでも授業;こやりがいを感じられるひとになりたいと思った.そこで,関口さんに,次つごうと返事をかいた.

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 ぽくが新任のころ,科教協の先輩たちぱ神"のようだった.追いつけない,と思った.今は,何とかくっついているけれど,スゴイ人たちがいることはたしか.玉田泰太郎氏も,その一人である.
 追いつこうとは思わない。僕は,僕なりの授業をやっていくしかない.
 関口さんは,“追いつぐことを考えるのですね.
 追いつくとか,追いこすという人生観は,一直線上の競争主義のにおいがします.ぼくなら,その道からはずれて,違った道を歩きます.
法則化運動は,誰かさんが“新努力主義"と命名した一直線上のおっかけっこを好む人が多いようです.向山氏など,授業では追いつけるでしょう.でも,あのセンスは,時間をかければ身につくものではないと思います.
 というわけで,関口さんは,10年たってもぼくを追い抜けないと思います.ナーンテネ.
(以下略)
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 私は,追いつく,追い抜く代わりに,開き直って,“コック煮精神”をもつようにした.イイものは,イイ.だから,自分にとってのイイものをゴッタ煮にして,授業をつくろうと,というわけなのだ.
 そんな私が,「授業を組み立てる力をどうつけるか」を語るのである.さ
て,どうなりますか.

  年に一つの単元をがんばる

 欲ばって「アレも,コレも」とやろうとすると,みんなダメになってしまう可能性が強い.
 私は,サークルの仲間だちと「年に一つくらいの単元は,がんばってみよう」と言い合っていた.「焦ることはない,じっくり力をつけていこう」と思ったのである.これが良かった.先ず気分がラクになった,
 担当の学年が決まると,「よし,今年は,この単元をがんばるぞ」と決意する.決意したら,サークルの仲間たちに宣言する.やる9きゃない,と自分を追いこむのである.
 私は,大学でも大学院でも化学と化学教育を専攻した.出が,工業高校の工業化学科だから,化学とのつき合いは長い.だから,はじめは,がんばろうとする単元は,化学分野が多かった.
 次には,最も不得手な電磁気にチャレンジした.
 サークルの仲間だちと,宇宙や生物のテキストづくりもした.
 そんなことを何年か続けていると,中学校の理科のかなりの部分が,一度はがんばうた単元になっていた.
 今では,どの単元も,「こんな授業がやりたいな」という具体的なイメージがおいてくる.イメージがわかない単元は,“骨だけの授業’゛になりがちで,そんなに時間もくわないものだ.それがイメージがおいてくると,“骨にゆたかに肉がついた授業“になって,時間もかかる.時間のやりくりが大変である.

  先ずイイものをマネすることから

 既して,マネをバカにするひとが多い.マネをバカにして,ずっと低いレベルの授業をやっているひとこそ,本もののバカである.
 マネばっかりのひともいる.仮説実験授業学派の「消費者」の方々だ.授業書づくりは,少数の「生産者」のしごとである.
 私の授業は,仮説実験授業がスタートだった.だが,仮説実験授業キチガイにはならなかった.科教協ク)何人かの“先達“に出あってしまったせいもあるし,授業書の「消費者」のままでは,授業が上達しないのではないかと思ったせいもある.
 世の中には,いろいろあるんだ,と仮説実験授業を相対化したのだ,
 世に公表されている授業書なり授業プランは,机上のものは別だが,実際の授業の結果をフィードバックさせてつくられている.だから,下手にいじらない方が良い.いじるのには,それ相応の力量が必要である.
 イイ授業書なり授業プジソを追試するなかで,授業の組み立て方が身についてくる.そういう授業体験だけではなく,授業実践に裏うちされた「理論」や授業記録・授業プラソを学ぶことだ.そうすると,自分でつくってもポイントをはずさなくなる.
 私は,新任のとき,仮説実験授業の「ばねと力」という授業書を使った.
 「ばねと力」の構成は,①地球の引力とばね ②ふつうのものとばね③ばねやものに加わる力 ④3つ以上の力のつりあい,となっている.内容は,地球の引力→磁石の引力→力の原理→万有引力と重さ→力の大小と力の矢じるし→ばねののびとひっぱる力→重さと力の単位→種々のばねとその性質→ふつうのものとばね→ねじりばかりと力の変形→机のはねかえす力→反二-カの伝わり方→3つ以上の力のつりあい→力のたし算→浮力や滑車への視わたし,という流れだ.
 これは,仮説実験授業の草創期に板倉聖宣さんが,上廻昭さんや庄司和晃さんらとっくりあげた授業書である.この授業書には,それまでの力学教育ご裳果が盛りこまれているとともに,板倉さんの科学史研究の成果が存分に舌かされている.しかも,教育実験として,何回もの授業をもとにしては改善を加えて,つくり上げたものである.この授業書こそ仮説実験授業の典型であり,代表である,と私は考える.
 新任のとき,この授業書をつかった授業をやったのは,私にとっていろいろな面でプラスになった.
 授業とはどんなものか,子どもの認識をさぐるとはなどの問題意識が生じt.とくに仮説実験授業というと,あの独特な授業運営法に目がいきやすいが、ポイントは,子どもたちカレ「予想」の段階から科学の最も一般的で基礎釣な概念・法則・理論を想定した「仮説」をもつ段階にまで引き上げるために一連の問題を課すというところである.だから,授業の組み立て方について,多いに参考になるのだ.
 私は,若いひとたちに,「『ばねと力』だけは,一度は授業にかけてみなさいよ」とすすめている.              ‥

  力の導入をどうするか

 さて,それでは,私が「ばねと力」に相当する中学校1年の「力」の単元をどう組み立てているかを語ることにしよう.
  「ばねと力」で,最も印象に残ったのは,「力の原理」である.
  「力の原理」とは,
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1 ものに力が加わると,その力の方向に動きだします.
2 反対向きの二つの力が加わっていて,一方の力が大きければ,大きな力のほうに動きだします.
3 止まっているものに加わる二つの力が反対向きで大きさが同じならは、そのものは動きません。
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というものである.アタリマエといえばアタリマエの内容であるが,この内容を承認することと自然界にこの原理を適用できる,使えるということとは全く別である.
 もう一つは,「物質のばねモデル」である.「どんなものでも,ばねの性質をもっ七いる」ということで,抗力概念を直感的に理解するのに役立つ.
 この二つは,私の「力」の授業の組み立ての中核として欠かせないものだ.さて,「ばねと力」が最高の授業書で,これ以上のものはない,というならいつでも「ばねと力」をやることにしよう.
 しかし,授業をしていて思うことは,「力の原理」を,いざ適用する段になると,原理を適用せずに,常識的・直観的判断にたようたり,その結果に対する納得がとても弱いということだった.
 「ばねと力」の常識的直観が敗北する最初の実験問題をみよう
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 ばねに加わる力に注目して「力の原理」を適用すると,AもB屯,ばねの両端に加わる力は同じ大きさだから,同じのびというように考える.その際,Bで,ばねを左の方に引く力は常識的・直観的にはわかりづらいが「物質のばねモデル」による抗力概念でイメージできるというのである.
 「ばねと力」の授業書の流し方では,実験結果として常識的直観派が敗北しても,討論の段階で,はたして力の原理派が相手を説得できるかというと,つらいのではないかと思う.この問題でいえば,私は,Bのおもりのない側が固定されているところに着目する.ひもが固定され七いるところを引っぱれば,そこは少し変形して,ひもを引っぱり返す.Bのばね乱左の方に引っぱられているとみることができれば,そのとき「力の原理」が適用できなくても,「力の原理」派の言いぶんを納得しやすい.すぐ原理を,では
なく,先ず現実をみるのである.
 「力の原理」は,動力学的内容をふくんだ原理である.力には,運動状態を変えるはたらきもあるが,物体を変形させるはたらきもある.
 もっと,「変形」を前面に出すことで,力を実感的に理解することができるのではないか.そんな問題意識で,理科教育界をみわたすと,極地方式研究会の「変形と力」とか玉田泰太郎さんらのプランが目に入ってくる.

  「ばねと力」のように,「物質のばねモデル」のお話をするのではなく,「あらゆる固体がばねの性質一弾性-をもっている」ことを,実験もふくめてとり扱うものだ.物と子どもたちのかかおりあいを重視したものである.

その後,私の授業の導入部は,概略次のようになった

 子どもたちにエキスパソダーのばねをみせる.のばしたり曲げたりしてから引き伸ばしている状態で「さて今日の問題.こうしているとき,ぼくの手はエキスパンダーのばねに力を加えているか」と課題をだす.「物の変形と力」のスタートである.ばねをもとにして,弾性・弾性限界・そ性を教える……

 次の時間には,ガラス棒や鉄棒をぶら下げて教室へ向かうに「君たちのまわりにある物で弾性があるものを探せ」と指示.子どもたちは,いろいろな物で,力を加えて変形するか,力を加えるのを止めると元の形にもどるかを実際に確かめている.いろいろな物の名前があがる.そのうえで,弾性がないと思いやすいガラス棒や鉄棒を扱う.「このガラス棒に弾性はあるか」「この鉄棒に弾性はあるか」という課題をだすのだ.子どもたちは,生活経験をもとにしたり,今までの授業で学んだことから考えたりする.
 3時間目には,ピアノ線やレーザーの装置などをかかえていった.レーザーの装置は,光てこの光源に用いる/机に力を加えたときの変形を拡大してみせるのである.

この授業も,次回にはさらに改善されることだろう.

 おわりに

 私が試行錯誤中の「静力学」を題材にして,私がどう授噺を組み立ててい
るかを述べてみた.少しでも役に立てばいいなと思う.

授業を組み立てる力どう身につけるか【小学校】(岡田 良治)教育科学「理科教育」1987.12 No.244

 はじめに
 理科の授業を参観させていただく機会は多い.事前の準備が行き届き,授業は先生と児童の問答のやりとりで順調に進んでいく.実験の方法も先生が予め大きな模造紙に順序よくまとめられてお呪児童はそれを見ながら実験活動に入る.結果はどのグループも同じようなのがバッチリ出た.それらの芒果をもとに,先生が「今の実験でわかったことは?」とたずねると,いくっかの手がさっと上がり,先生の期待したとおりの答が返ってきた.参観の先生方の中には感心したような,満足したような顔をしている人もみえる.しかし,この授業は先生が本時でおさえようとした学習内容にはゴールインしたであろうが,それが一人ひとりの児童にどれだげ吸収され,児童の納得そ’るものとしてとらえられたであろうか.積極的に挙手した児童を中心とする何割かの者だけに身についたにすぎないのではなかろうか.もしそうならよ,それは授業の組み立て方に問題があったかも知れない.教師は事前に一人ひとりの児童がそろって学習にかかおる授業の組み立てを考えたであろうしか.また,目標達成の手だてをどのようにし,この授業を通してどんな力を児童に培おうと考えていたのであろうか.
 授業の組み立ては展開もさることながらいろんな要素を念頭におかなくてはならない.たとえば,          十
 ①すべての児童に何をとらえさせるのか(学力保障)
 ②どのような能力を培おうとするのか(成長保障)
 ③それには,どのような教材を持ち込むのがよいのか(教材の設定)
 ④どのような場の中で,どんな活動をさせるのか(個の確立)
 ⑤教師のはたらきかけは,どうあるべきか(教材と児童へのかかおり)
等々,心がけるべきことがらぱ数多い.以下,標題につしヽて事例をあげながら考えるところを述べてみたい.
  1 日標の設定
 授業を行うに際しての目標は,児童にとらえさせたい自然認識としての目標と,授業を通じて児童に養っていきたい物の見方,考え方,扱い方としての能力的な目標とがある.このほか,自然に対する興味・関心・感動する豊かな心なども目標に含まれる.
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 (1) 自然認識としての目標 この目標は達成目標といわれるように学習内容としての知識・理解が中心になる.これについての目標設定にあたっては,指導内容ことになる.基礎・基本とは何か,両者をはっきり分けることは困難であるが,1つの考え方として水平・垂直構造として考えることができる.水平構造とは例えば,1年のアサガオの成長過程と折々の世話,2年のヒマワリの育ちと日,当り等,1年から6年までの一連の積み上げである.垂直構造とは生命を基盤に植物教材を貫ぬく発芽から成長,繁殖としてのサイクルと,それにかかおる水,空気,温度,日当り,肥料,土等の環境としての要因である,要は認識の連続と発展を十分意識して目標設定を行うということになる.
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 (2)科学する力
 科学する力とは,いいかえれば自然を調べる能力や態度といえる.この能力は形として外からは見えないだけに,授業の際,知識・理解の目標に比べその力点が軽くなることが多い.しかしながら,この能力こそが理科学習を支えるものであり,児童の成長保障として指導の過程を通してしっかり育てていかなくてはならないことがらである.
 この能力は大きく分けて,思考・判断にかかおるものと操作技能にかかおるもの,それに,自然の事物・現象に目を向け,取り組もうとする「いどむ心」としての態度的な面とがある.
 思考・判断には,事物・現象を比べ,共通点や差異点を見つけること,部分と全体を関係的に見ること,事物・現象の中にみられる相互関係や規則性を見出すこと,わかったことを他に適用することなどがある.自ら自然を追求していく力を育てるにはこのような推理,判断,関係づけ等の思考活動を授業の中に位置づけていくことを十分意識する必要があろう.
 さらに,児童が科学的に学習を行う視点としてに筆者の学校では下の3つのことがらを学習の姿として現われることを期待している、
 ①みつける.  ②いかす.  ③すすめる.
 「みつける」は,疑問や矛盾を見つける,多様な発想や情報・資料を見つける,問題解決後さらに新しい問題を見つける等である.「いかす」は問題解決にあたり,過去の学習経験やコミュニケーションの交流から考えを改め,深めていくことであり,「すすめる」は追求活動をすすめていくことで,学習に対する意欲と解決への見通し,計画とその具体化等をさす.これら3つは学習のプロセスを表すものではなく,学習の過程の中で必要に応じ児童の活動として現われることを期待している.
 追求する子ども像としては,「もとめる子」「あらわす子」「つなげる子」「試み,たしかめる子」「まとめる子」など,一連め活動が学習の姿として出てくるよう指導の中ではたらきかけていきたいものである。
 (3)目標の具体化  
 授業の組み立てにあたっては,以上に述べたように単元め内容面からと児童につけたい能力面からの両視点で考えることになるが,目標の具体化については単元の指導内容から洗い出す作業が必要になる.これについては参考文献が数多く出ているので,それらをもとに指導者のねらい合ったものをつくり出すようにすればよいだろう.
 下は6年「草むらや林の植物」の単元を観点別に目標をあげたものである
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 2 教材の選定
 一般に生物を扱う単元はやりにくいといわれる.それは適切な素材が身近に得られない,指導のタイミングを合わせにくい,数が多く必要,植物については児童の関心がうすい,探求の過程にのせにくい,などがその理由と考えられる.しかし,指導者の見方,やり方を変えればこれらの問題も乗り越えられるものである.「草むらや林の植物」もやりにくいといわれる単元の1つであるが,目標に照らして適切な素材と場を見つけてみよう.
学校の運動場や中庭には,いくら都会の中といっても必ず草むらや樹木があるものである.それらは運動場のすみや建物の周り,遊具のあたりなど,いくつかの場所で見つけられる.また,草がむらかって生えていたり1木立ちの樹木や2~3本くっついて植えられていることもあろう.さらに,一歩学校を出ると、地域に応じて野原や川原、公園等もっと多様な場所見つけることができる.下はそんな場所での事例である.
〇こんでいるところ
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〇林の外側
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 セイタカアワダチソウの群落を観察し,育ちの様子が日当りや互いの影響のし合いに気づいた後,林の木々の育ちも同じようなことが見られるのだろうか,ということになり,学校の近くの小さな林を調べることになった. このとき,問題意識として,日当たり,温度,しめりけ,下草の様子等に目を向けようと児童の話し合いの中から観察の視点が出てきた.
 3 授業展開と形態
 理科学習は基本的には問題解決型ですすめられる.いわゆる問題把握から課題の明確化,予想・仮説,観察・実験,結果の考察こやまとめ等の過程を歩みながら自然のしくみやきまりをとらえていくとともに,自然を追求する態度や能力を培っていこうとするものである.ところが,理科は問題解決型の学習でなければとか,探求のプロセスでなければと強く意識しすぎて,児童の実態や教材の特性を軽んじてしまうことはありはしないだろうか.
 (1)児童の実態をふまえて
 小学校1年生の児童に上のような学習過程を持ち込めないことば誰れもが承知していることである.低学年の児童には課題をつかんでも,それに対する解決への手だてや見通しを待った上で対象にあたることはできない.彼等は「考えてから歩くのでなく,歩きながら考える」という時期だからである.例えば,「動くおもちや」の単元では,教師が見せる演示を見て「やってみたい」「わたしにも出来そうだ」と活動への意欲を高め,自分なりのイメージをもとに,作る→試す→作り直す→試すを繰り返す.この間に,彼なりに考え,工夫し,周りの情報をとり入れ活動に没頭する.そして,この過程で考える力や情報を処理する力,ねばり強く取り組む意志や態度,手先の技や操作する技能等,理科的な総合力が身についていく.
 こう考えるならば,低学年には活動の内容とレベルと,教師の投げかけ,励まし,個別的指導形態等,授業の組み立てにあたって考えておかなければならないということになる.中・高学年においても児童の実態を十分把握した上で指導に臨むことは同様である.
 (2)児童に根ざした授業を
 先に述べたように,問題解決の流れが絵に描いたような授業を見ることがある.このような授業を見るとき,教師の指導技術のサイドから見るのと,児童の立場に立って,児童にはこれでよいのかと見るのとでは見え方,感じ方がずい分違ってくる.教師に目を向けたとき,よく洗練されていると見えた授業でも,それは問題解決というコースを脱線しないで見事にゴールインしたというだけで,満足感,充実感を味わっているのは当の教師と一部の児童にとどまっているに過ぎないということはありはしないか.こうならない為にも「わたしの学習」が成り立つよう考えねばなるまい.それには,次のような留意点が考えられる.
 ①一斉授業の中にも,個別活動の時と場を保障する.②学習の過程に「考えて書く.人に話す.人と話す」場を必ず入れる.③児童の体験や経験をとり上げ,授業に生かしてやる.④学習したことがらを「わたしのことば」でまとめさせる.⑤自分の学習をふり返らせる.
 (3)教師は目標を,児童には目的を.
 指導案には「……に気づかせる」とか「……ができるようになる」とか教師サイド,児童サイドの目標があげられているが,指導案を指導者の手引き,参観者へのガイドと考えるなら,大人には授業のあらましは分っても,児童は先生が何を意図しているか知りようがない.児童には学習活動として出来るだけ具体的に本時は何のために何をするのかという目的をはっきりさせてやりたい.少なくとも,先生のいわれるままにやっていたらゴールイソしていたという授業にならないようにしたいものである.
  おわりに
 授業を組み立てるにはどうすればよいか,ということで以上述べてきたが,これらは,いねば当然のことで特に新鮮味はないかも知れない.しかし,楽をしてよい授業を組み立てる方法などあろう筈がなく,また,人の真似をしてもそれと同じ授業にはならないものである.要は自分なりにいろいろ考え試してみること,そして,自校・他校を問わず多くの授業を問題意識をもってみることではなかろうか.その中から必ず自分なりの持ち味を生かした個性的な授業が生れてくるものである.
          <大阪府池田市緑丘・大阪教育大学附属池田小学校>

素材選びの力量どう身につけるか(鈴木清龍) 教育科学「理科教育」1987.12 No.244

 1 直観的に“素材とは何が
 いつも新しいアイデアにみちた授業をつくるK先生と話しあった.「素材って何だ,素材の教材化というコトバがでているのだけれど乱」「これは授業に使える!」「これで何かやれそうだなー.」「これがあるとあそこの授業がうまくやれる!」という勘が働らくのが素材だという.まだ授業に使ってみないのだけれど,ものがあるとイメ-ジがわいてきて,構想が具体的になってくるのだという.物と授業が通っているのだ.
 私たちの仲間の先生はいろいろなものをみっけてきて自慢をする.よくはずみそうだが机におとすとポトフとくっついたようになって,はねかえらない玉.何に使うの? これから考える.(だけども彼の頭に牒授業とのつながりがつきかけているにちがいない.)デパートに行ったら,オモチャ売場や食器・家庭用品のフロアー,街を歩いたら金物屋や文具店,アイデア商品の店による.上京したら東急ハソズや秋葉原,合羽橋で有金をはたいてくるといった仲間たち.日曜大工の店が大好きな仲間たち.“物ども”のタレントをピンと感じとって,授業の舞台にのせるのは,俳優を育てるのがうまい演出家と同じだ.
 2 たてまえ的に“素材の教材化”
 素材というコトバが,とりたてて出されてくるのは,52年の学習指導要領が契機になる.それまであった特定の素材(たとえば頭酸・石けん・イネ…など)の表記がなくなった.昭和53年に出た小学校指導書理科編(文部省)」では,指導要領改訂の要点として,「各地域の自然環境や児童の実態に即し各学校における創意を生かした教育課程を編成し,指導の工夫ができるように内容の取扱いにおける留意事項の記述は最小限にとどめ,学習指導に用いる素材の表記は行わないことにした」と書いている.
 昭55年にでた文部省の「指導計画の作成と学習指導(小学校理科指導資料)」でも「素材の表記のないことから,モの地域の自然環境から適切な素材を選択したり,内容の教材としての意味付けを検討することによって,これまでに扱われてきた素材を見直したり,新らしい素材を積極的に開発したりする.ややもすると,これまでにあった素材の扱い方から脱し切れない場合があるが,内容の検討から始めて,児童の創意が生かされ,学習上の効果が上るような努力をしたい.例えば,B区分の内容にある「物」について言えば,それを一つにするか,複数にするか,あるいは,物の提示を順序付けることによって一般化を図るかなど,教師自身の創意にまつ面が多い.」と述べている.教師の創意ある実践を期待している.
 同書には各学年の指導事例が学習指導要領の目標と内容,素材の選択,児童の実態の想定,指導計画,実践と考察という構成で例示してある.
  第1学年 草や木の実と落ち葉
  第2学年 おもりで動くおもちや
  第3学年 空気でっぽう
  第4学年 流れる水のはたらき
  第5学年 星の動き
  第6学年 植物とその環境
  第6学年 地層
 だから,上の題で各自指導計画を作って,比較検討してみるのは創意くらべの演習課題として面白い.ひとまず,上のそれぞれで,何か素材か考えてみていただきたい.できるだけ,異をたて,こだわること.たとえば,星というと太陽や月ははいるのか,「星」なのか「星の動き」なのか,など.
3.「空気てっぽう」の素材はなにか
ズバリ、第3学年「空気てっぽう」の事例で考える
学習指導要領の目標・内容・第3学年の内容B(1)
閉じ込めた空気に力を加えたときの様子を調べ,空気に弾力性があることを理解させる.
 ア 空気を圧し縮めると,かさが小さくなるが,手ごたえは大きくなり,元にもどろうとすること.また,この性質を利用して物を動かすことが,できること.
 イ 空気は圧し縮められるが,水は圧し縮められないこと.
 この目標内容でのおもな素材は何だと考えますか.この目標内容で,もし教科書を書いたとして,題を何とつけますか.(現行の6社で,4種の題名があります.)
   「紙玉でっぽう」  信濃教育会
  「空気でっぽう」  東京書籍・大日本図書・啓林館
   「空気と水」    学校図書
   「空気のはたらき」 教育出版
  「指導計画の作成と学習指導」のこの部分の筆者は次のように書いている.
 「閉じ込めた空気に弾性があることを理解させるには,
① 空気を閉じ込める物が必要である.(筒)
② とばすものが必要である(玉)
①の素材としては,ポリ袋,ポリ容器,空気でっぽう,注射器,かん腸器などが考,えられる.
②の素材としては,紙,野菜などが考えられる」と.そして,透明な筒を使った空気でっぽうを全体を通して使い,ジャガイモ玉とキウリ玉を比較して玉のとぶわけを追求する。
4 「国民学校理科」の克服
  「紙ダマ鉄砲」という題の教材は戦時中の昭和15年,国民学校初等科理科4年にはじまる.類題でいまも生命を永らえている.教師用書の目的には 「紙ダマ鉄砲」(5時限)」「目的・紙だま鉄砲をつくらせ,たまをうって遊ばせる間に,工夫・考察の力,ものごとをきぱめる態度を養ひ,空気の存在,空気の圧力の利用について知らせる.」となっている.
 竹で紙だま鉄砲をつくり玉がよくとぶように工夫すること,なぜ玉がとぶか考えることという目的・目標.・学習活動がセットになり分離できない強制力をもつことにたった.(ほかにも「おきあがりこぼし」という教材がありいまの「おもりで動くおもちや」となって生きている.)おしちじめられた空気の弾性を教えるのならもっと別な方法があるではないかという教師の疑問に対して「つくる活動と工夫をとおして」でなければならぬという思想が権威をもった。
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 しかし,国民学校以前は,明治41年以来の尋常小学理科書では「空気の性質」という題で,「要旨」として「空気の性質を教え,之によりて気体一般に」性質を知らしむ.」「教授事項1空気の場所を占むること 2空気の圧縮せられ易きこと」があげられてあり,「実験」として,BとCが例示されていた.それより以前の,たとえば,後藤牧太等の「小学校生徒用物理書明治18年」(気体の性質)には,B(但しフラスコではなく,びん)とDの空気鉄忿で,空気の圧力を教えるようになっていた.Aも多くの教授法参考書にのっている。
5 日標・内容の検討・科学と児童の実態に即して
 昭和34年学習指導要領で「押しちじめられた空気がもとにもどろうとする力は,手ごたえや力を受ける物の動きでわかる(小3,   B(2)イ)」となったのに,あいかわらず,紙玉鉄砲でなければならないとする主張に対して高橋金三郎(当時東北大)は,「新らしい紙玉鉄砲」としてマヨネーズの容器を使った方法を提案した.(昭和38年「やさしくて本質的な理科実験」第1集・科は,ポリ容器を押したら空気が物を押すことがよくわかる.管の方はマッチとのまさつがなくよく飛ぶ.コルク栓を殺す(やおらかくする),ボーラーで穴をおけるという化学者の基本操作を学ぶ。
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(これまでの紙玉鉄砲のとぶわけは教師もよくわかっていない.空気の圧縮されて押しかえす力だけではなく先玉は静止まさつで止っていて,動きはじめてからの運動まさつが小さいので加速されること,そのためには,ある距離が必要なことなど)何のために,何を,どう教えるか,を科学にてらし,子どもに教えてみて考えるという研究運動がようやく力をもちはじめた.
 「おしこめられた空気」を素材として,それが示す現象が学習の対象になるのなら,そのことを子どもたちはどのように知っているか,それを子どもたちに聞いてみよう」「空気をいっぱいつめこんであるもの,つめこんで使うものはどんなのがある?」
 「タイヤ」「何の」「自転車にきまってるi 自転車やバイクも」「ポンプで入れる.」「ガソリンスタンドで入れる」「スプレー」(気体の種類なんて気にしていない)「ダイバーの背負っているやつ」「酸素ボンベ」「浮き輪」「空気枕」「風船」「ビーチボール」「ゴムボート」ドプール(庭で使う)」「足でふむ(ポンプのこと)」「エヤマット」「救命胴着」「飛行船」「アドバルーソ」「コンクリートこわす」「ダダダつてやってる.」「あれ,モーターとちがう?」
 このような子どもだちとのやりとりのなかから,大きなビュール袋に小さいビ弓-ル袋に空気を入れたのをつめこむととても丈夫にできる工夫がうまれた.(「空気に構造をつくる」といっている)この方法も,トいくつかの教科書にとり入れられている.
今,高価な注射器やかん腸器(こわれやすい)にかわって,使い捨てのプラスチック注射器が容易に入手できるようになった.指導要領では「圧縮されたときの弾性」だけをいっているが,「ひっぱったときの弾性」はとりあつかえないものだろうか.昔の教科書では「空気の圧力」は「大気の圧力」とあわせてあつかっていたこともある.小学3年ではやりすぎになるか.と,目標,内容は新らしい方法とあわせて検討されてよい.わかって面白いというのなら大胆に試行して評価をうけるべきだ.
 6 教科書,そのストックの活用
 目標・内容の吟味,教材化・授業での検討のサイクルは教科書にも反映する.教科書は素材の教材化された最大のストックだ.指導要領の目標内容に即するという一定の制約はあるにしろ,手っとりばやく現在の水準をクリヤーするには教科書をみわたすのが近道である.いうまでもないが,小学校で;ま,東京書籍,大日本図書,学校図書,啓林館,教育出版,それに信濃教育会の6種である.(中学校は信濃がない)といっても書店では取扱わない.教科書納入業者にきくか,教科書販売所に注文する.
 教科書展示会の会場校で保管しているのを借用するのもいい.
 個人で購入するくらいの熱意がなくて,研究成果は望めないと私は思う.
 全県統一採択に近い状況で,他社の教科書なんてかえりみない無関心無気力から回復しよう.
 7 「ものみなすべて」の発想
 理科で学ぶことは,人類が永い間に大自然から学んできた事実・概念・法則の基礎基本・エッセンスでなければならぬ.とりあえず自分が教えたこと (知ったことでもいい)で,ものみなそうか,と考えてみることは素材の発 掘,発見に役立つと思う.たとえば,三態変化で.固体の物質はみんなとろ けるか.鉄は? 金は? ダイヤモンドは.気体はみんな液体になるかレ空 気は,酸素は,ヘリウムは?.こんな問いを発するなかで,液体窒素を使う という実践が生まれた.「花の役割」を教える.「花が咲くと実ができ種子が できる.」花が咲くのはみんな実ができるか,種子ができるか.チューリップは,ジャガイモは? と自らに問いかけ,子どもにも聞いてみ七,そこから 新らしい授業がうまれる.野菜-ダイコン,ニンジソ,トウモgコシに種子 がある? 花が咲く? こう問うて,「花が咲くと実がなり種子ができる」 というルールが確かになっていく.無花果(イチジュク)にも花が咲くので はないか本当は?と考えて調べてみる.例外でなトことに喜ぶ.
  知識を一般化した命題にし,そこに適用される事例の範囲を拡張する.それは,目標に対しての内容をひろげることになり,素材のサーチを促す.そのようなサーチをいくつかやると,自分がある対象世界について何と少 ししか知らないかに気づく.元素すべてというといくつある?100種.その うち金属はいくつ?→周期表.動物すべてと考える.何種ある?どんな仲 間に分けられている? 大ざっぱでいいのだが.(植物も)→理科年表に 生物の部がついている.「動物はエサを食べて生きている」「うん」「ではみんなロがあるか,肛門があるか,消化管があるか,ウソコをするか.」「だんだんあやしくなってきた.自分もわからないけれど,子どもはどうかな.」
  こんなことも,問題づくりという形をとった素材探索であるといってい い.さて,この節で「固体は液体になる」とか「花が咲くと実がなり種子が できる」とか「動物はすべてウンロをする」というように,命題表現の形を とった.そうすると,その場合の,事例を考えやすくする.(一般的なフレー ル表現で,事例を代入して点検できる.それ払 目標に対しての内容の検討の手法である.(ふれるだけに止める.)       <宮城教育大学教授>

2013年1月17日 (木)

「おもしろ理科授業入門」 補章

1.科学教育の目的を考えよう
 ぼくたちは「科学」を教えている。「科学」を教えることを考えるには,そもそも「科学とは何であるか」をとらえておく必要がある。
 科学は,自然を対象とするか社会を対象とするかで,自然科学と社会科学に大きく分けることができる。
 ここでは,自然科学をとり上げる。自然科学は,客観的実在たる自然の構造,法則性,歴史をさぐっていくという理論的探究の営みである。また,その探究の結果として,その歴史的時点での自然像をはっきりさせる体系的知識でもある。
 その自然科学をなぜ教えるか。
 ぼくは,自然科学教育の目的を2つにしぼってみた。
 第1に,おもしろいからである。
 秘密におおわれた自然界のベールをはいでいく,未知の世界だったものがとらえることのできる世界に変わっていく,同時にその先に「わからない世界」が浮かび上がってくる……それは大変おもしろいことだ。
 子どもたちは未知への探究行動を本性上もっているのだ。だから元来,子どもたちは自然が好き,自然科学が好きである。
 自然科学の授業は,自然の秘密を解きあかす理論的探究を,教室の場で行っていくことなのである。
 第2に,行動判断の土台になるからである。
 本当に生死をかけたレベルでの行動の判断は,自然科学の基礎的知識なしでは行えない。
 日常生活では,そんなことはほとんどおこらない。しかし,直接すぐには生死にかかわらないが,公害・環境破壊などじわじわすすむ大量殺人,戦争といった大量殺人に結びつくウソが満ちているのが今日の社会である。それらのウソにだまされないようにしなければならない。
 一見してウソとわかるような粗っぽいデマゴギーなどはなく、「科学的よそおい」をこらした情報がいっぱいなのである。例えば,政府・電力業界による原子力発電の宣伝がそうである。
 それらのウソを見ぬく力を自然科学教育だけで育てるのは無理だが,自然科学なしでは到底できるものではない。
 次は,ある日の授業の1コマである。テーマは「力の合成・分解」。
 いくつかの生花の剣山を生徒にまわした。「手で押してみな」と指示。指で押して「痛い!」という声があがる。手の平で押すと,痛さを感じない。
 「さて,この剣山の上にはだしで立てるかな?」と問う。
 「力の合成・分解」の授業で獲得した考え方をもとにして,「立てる」とする者が多数派。「“立てる”つて人にやってもらうよ」と言うと,ちょっと動揺。それでも,何人かが志願。
 両足で立つ。「さあ,それでは片足になってもらうよ」「えーつ」「片足になると1本1本の針から足に受ける力の大きさは,両足と比べてどうなるか?」
「2倍!」片足になると一挙に2倍になるのである。
 それでも,片足で大丈夫。そこで,ぼくは一冊の本をかざしながら「お話」をしてあげた。ぼくの長男が通っている「忍法教室」(戸隠流忍法)の先生の師(初見良昭氏)がかいた本である。日本刀はタテみがきなので刃の上に乗っても切れないが,知らない人にとっては驚きである。
 初見氏はいう。
 「こういうことをして,超能力者か武芸の名人でもあるかのごとく吹聴している人がいるが,彼らぱビックリ人間”ではなくて,“ビックリ”させることのうまい人たちなのである」
 そんな“危険法術”をいくつか紹介しているが,そのなかに「針の山やガラス片の上に乗る術」がある。
 「(剣山の上に乗れる)同じ理由で,ガラス片の上に乗っても何ともない。しかし,この場合,ガラス片を山積しておくことが肝心である。足の裏の皮膚は全身で最も硬いが,ガラスの山をおりるときには,よくガラスを払わねばならない。 1つのガラス片はたちまち足につきささるからである」
 この話を読んで,「テレビでやっている超能力もののなかには,同じようなものも多いんだよ」と話をした。その後,やっぱりテレビに登場したと。-ことだ。“厳しい訓練の結果”との説明とともに,小学生くらいの女の子ぎでニスの破片の上を歩いてみせたそうである。
 また,先日,Mrマリックなる者のハンドパワーをTVで見た。スプーンまげだ。ぽくはスプーンから完全に離れてスプーンをまげたら手品として最高級だと思った。そうしたら,結局,最後までスプーンにさわっているのだ。「さわっている物どおしには,力がはたらき合う」のは,あたり前の話である。それが力学の基本である。超能力ではなく,まさにハンドパワーである。彼はその点でウソを言っていない。しかし,何らかの「念力」がはたらいかというと,はたらいてまがったのではない。そこが見ぬけるのは,力学を勉強したからだ。自然の法則性にのっとっていなければ,どこかにウソっぱちがあてるわけだ。
 いわゆる「超能力・オカルト」が子ども・大人を問わず心情をとらえるのは,今日の社会のありようが土壌になっていて根が深いのである。「科学への不信」を抱いていることも一原因である。本当の自然科学教育をすすめることで「科学への不信」をとり除かなくてはならない。
 ぼくがあげた2つの目的は,断片的知識を与える教育では達成できなら自然の構造,法則性,歴史,すなわち自然像がとらえられるように科学の基礎的事実,概念,法則をもとに自然を探究していく教育でなければならない。そのとき,子どもたちに科学の基礎的事実,概念・法則がしっかり身につくように授業を体系的に組み立てる必要がある。
 自然科学が発展すればするほど,自然の姿,自然像がはっきりしてくる。そうすると,自然をできるだけ統一的に見わたす理論なり法則は少数になっていく。それらの理論なり法則は,体系的に授業を組み立て,教材として豊かに肉づけしていけば,ほとんどの子どもたちにわかるものなのだ。科学・技術の基礎がわかる授業をすることが,子どもたちに行動判断の土台を与えることになる。結局,科学・技術を戦争に使わせないで,人類の生存のために、福祉のために使わせることの土台になると思うのである。
 1つ注意しておかなければならないことがある。
 「自然科学」を,「物理学・化学・生物学・地学」といった基礎諸科学にせばめないで,工学諸科学までひろげて考えようということである。
 例をあげる。
 小・中学校電気の学習では,電磁気学に閉じこもらないで,電気工学的扱いをしようとなると「回路がわかる,回路をつくることができる」ことがねらいの授業になる。
 電磁気学にとどまっていては,電位とは何かなどが中心になってしまうのである。
 力学の学習でいえば,物に密着した力学なら,ニュートン力学に閉じこもらないで材料力学を考えようとなる。「物には,ばねの性質がある」ことを徹底してやろう,ということになる。鉄の机でもちょっと指で押すと,机は目には見えないほどだがちぢむ。指もちぢむ。そのとき机は,もとにもどろうと指に力を加える・・・・というような内容を扱っていくのである。
 戦争のない社会,民主主義がつらぬく社会をつくるためには,「読み,書き,算」だけでは絶対的にムリである。「読み,書き,算,サイエンス」,これが現代の子どもたちに最低限必要なことである。
2 科学を身近なものに
 中学2年生を引率して遠足に出かけたときのことだ。場所は,奥多摩の山の中,小さな清流のはとり。そこで石でかまどをつくらせ,たきぎをひろわせ,飯ごう炊飯をさせようというのだ。一束いくらで買ったまきをあてがい,できあいのかまどでやらせるよりも意味のある体験になるだろうと考えてのことである。
 結果はどうか。 5人の教員の班がかまどをつくり,火を燃やし,料理を一種類つくり終わったころになっても,子どもたちは火をつけるのに悪戦苦闘していた。前日,雨で杉の葉や本の枝がややしめっていたという悪条件はあったが,それは教員のがわもおなじこと。結局,かまどづくり,火つけの点では,子どもたちと教員とのあいだに圧倒的な差があったということなのだ。
 ぼくはそのとき,30代半ば。少年時代はかまどにまきをくべ,ご飯をたき、ふろをわかした。それはぼくの仕事だった。都会は別として,そんなことはアタリマエの時代だったような気がする。野山をかけめぐる少年時代だった。
こんなことをおもいだしたのも『私たちの科学研究 新版』(大日本図書,昭和27年初版)の燃焼にかかわるところを読んだからである。この教科書は「生活単元学習」時代の教科書のひとつである。各単元は,「水は自然界のどんなところにあるか」「生物はどこでどのように生育するか」「天体は私たちの生活にどのようなつながりをもっているか」「電気はどのように利用されているか」「科学の研究は生物の改良にどのように役だっているか」「科学によって見える世界はどのように広がったか」「科学は人生にどんな貢献をしているか」などなどのテーマで推察できるように,生活を中心にすえて構成されて
いる。
 このなかに,「熱や光は近代生活にどのように利用されているか」という単元がある。むかしの人の発火法から話をはじめ,燃料の種類と使い方,ものの燃やし方,燃えてできるもの,というセクションがあるが,それが燃焼にかかおることである。
 ここにはいろいろなかまどの図もあって,かつてかまどのまえでまきをくべながら,その日のつらいこと,悲しいことを流し去っていた少年時代をおもいおこしたというわけなのである。 レ
 いま,かつてと比べて,ぼくたちの生活は便利になりすぎた。自然と一体になってくらしているというところからあまりにも遠ざかりすぎた。生活もそうだが,学習にもそのような傾向がないだろうか。かまどづくりや火づくりを学習させなければならないというわけではない。生活が便利になった,生活体験が希薄になったことをふまえて,学習が組まれているかを問いたいのだ。炭の燃焼をみたこともない生徒に「炭素の燃焼」を教えているのである。この現実は重いのではないか。
 だからといって、生活単元学習の時代にもどることがいいわけではない。生活単元学習では,たとえば,水にかんする様々な学習に「水のなりたち」がくみこまれ,そこで水の分解,酸素と水素から水ができる……という素材から分解,化合という化学変化の初歩的概念が学習された。それがさきほどの燃焼にひきつがれた。実際生活のなかに学習が埋没しているのだ。これでは自然科学の基礎的事実・概念・法則を系統的に学習することと比べて,あまりにも断片的であり,科学としては低いレベルをはいまわるものにしかな
りえなかったのは当然であった。
 それでも生活単元学習がめざしたもの,えがいた夢を完全に否定してはならないのではないか。子どもたちを頭でっかち。にするのではなく,多様な自然(物質)とふれあい,「身近な」自然(物質)をしっかりととらえられるような科学の授業をしなければならないと考えるのである。自然科学の基礎的事実・概念・法則と生活,ひろくは「人間の生きかた」とを意識的・積極的に結びつけよう。科学を子どもたちにとっても身近なものにしなければならない。
3 主体性をもって授業実践を
  一子ども・自然・自然科学から出発しようー
 ぽくには夢がある。
 自分なりに,過去の,大げさにいえば,わが日本の理科教育の成果を土台に内容を考え,「こんな発問を投げかければ,どんな反応が返ってくるか。きっとこの意見とあの意見が出るだろうな。そうしたら……」などと考え,胸をわくわくさせて教室へ向かう。いそいそと恋人にでも会いにいくようなつもりで教室へ向かうのだ。そうして,悪戦苦闘でよい,教師と生徒たちが教材を仲立ちに共に授業を創って,「ああ今日は生徒が一所懸命に考えぬいて一歩前進してくれたなあ。ぼくも,だいぶ生徒たちから学ぶことがあったなあ」という充実感につつまれて教室を出る,という夢なのである。
 そんな夢が現実化するのは年に何回もないけれど,やはり夢を追いもとめていきたいものだ。夢を夢のままで終わらせたくないのだ。「偉大な人生とは何か。青年時代の思想を歳をとっても実行することである」という言葉を,学生時代にかきつけていた自分なのだから。
 しかし,「当たらずさわらずに,高校入試に出そうな所を重点的にやっていればいいのだよ」という悪魔の声が耳もとでささやく。その声を聞き入れれば,平穏無事な教師生活が約束されるのだろう。ナマケ者で,グータラなぽくは,そんな声にも「ナルホドなあ」などと心をゆりうごかされる面もあるけれど,教科書を上手にこなし,高校入試に生徒が少しは有利になったとしても,ぼく自身のなかで失われるものの多さを恐れている。
 ぼくは,自主編成ということを,「教師の主体性」という観点で考える。教科書を使わないで,何かしらのプリントを使うから自主編成といえるわけではないのだ。自分の存在をかけて,「ギリギリこういう内容を教えるのだ。今の自分では,ここを教えるには,こういう教材で,こういう配列で,こう教えなくてはならんのだ」と主張し得るなら,教科書をその目標達成の教材・教具の1つとして使おうが,独自のプリントを使おうが,それが自主編成といえるのだ,と考えている。
 教科書は,優秀だとされているライターによって本文がかかれ,授業でとりあげるべき実験がえらばれ,美しい写真が配置されている。各教科書会社が強い制約のもとで精一杯「良い教科書をつくろう」ととり組んでいるのは認めよう。
 にもかかわらず,教科書に拘束されていては「楽しくわかる授業」は無理だと考える。というのは,現在の教科書検定制度のもとでは,子ども・自然・自然科学から出発した教科書づくりがされているわけではないからである。
 だから,まず教師が教科書から自立していることが必要なのだ。自立したうえで教科書に「おつきあい」しない限り,指導内容,いや指導方法までもが教科書によって強く拘束されてしまうだろう。教科書にひきずられるという事になりやすいのである。
 ぼくたちは,「何を」「いかに」教えるのかを,子ども・自然・自然科学から出発して実践的に研究していこう。そのために学期に1つの単元,いや少なくとも年に1回の単元は教科書から自立をし,自分なりに考えぬき意識的に授業をやっていこう。そうして1人の教師として年々太っていくと共に,その成果(失敗もふくめて)を交流しあうなかで,「楽しくわかる授業」の内容と方法を確立していこうではないか。
4 新しい授業を創り出すための実態調査を
教育界には,「論文」「報告」が満ちあふれている。附属学校などで定例的に出している「研究紀要」。何かの研究指定校になって取り組んだことの「研究報告」などなど。
 どんどん教育研究がすすんでいるのなら,わが国の教育はもっと良くなっていい。学習指導要領などに現場がふりまわされるという情ないことにはなるまい。「理科」の部分だけをみても,全国の「研究」の成果の上にたって,作成しているとは到底思えない。官僚や作成委員の学者先生の恣意的な作文なのだもの。
 まあ,しかたがないか。教育界にあふれる「論文」「報告」のほとんどの読者は,書いた本人くらいであるだろうから。それらの内容の前提になったであろう公開研究会は,形式的なお祭りさわぎに終っていることが多いのだから。
 それらの「論文」「報告」には,しばしば実態調査なるアンケート調査の報告がのっている。
 「ある単元の教材研究や授業研究をしよう」となると,「とりあえず実態調査をやろう」ということになるようだ。まことに安易な発想である。
 そこには,“数値(データ)イ言仰”がある。どうも数値を示すと「科学的」という錯覚がある。もちろん,数値など具体的裏づけはないよりはあったほうがいい。しかし,調査そのものの妥当性がないのに,数値を示したって何の意味もないことも確かである。
 アンヶ-卜方式の実態調査を集計して,集計結果を%などで表す。すると「科学的」な感じがして自己満足できる。
 ぼくが実態調査というと,すぐ思いうかべる調査がある。それは,   1950年代の終わりから1960年代前半に板倉聖宣さん(国立教育研究所)たちが行った調査だ。それを超えるレベルの実態調査に,ぼくは出会っていない。
 それは,日本科学史学会の『科学史研究j No.52 (1959年)の「理科教育におけるアリストテレス・スコラ的力学観と原子論的・ガリレイ的力学力観」(板倉聖宣『科学と方法』季節社所収)と,『国立教育研究所紀要j No.46 (1965年)の「物理学の基礎的な考え方の理解の実情」である。その調査結果などをもとにして,板倉聖宣・江沢洋『物理学入門 科学教育の現代化』(国土社)が書かれている。
 板倉さんは,当時,「これらのテスト結果の誤答分析を通じて小学校から高校における物理,とくに力学の教育の全面的な改革について研究を計画して試行して」いた最中であった。仮説実験授業の具体化がはかられていたのである。仮説実験授業のテキスト「ばねと力」や「物とその重さ」が姿を現そうという時であった。
 ぼくは,板倉さんたちが「科学の基本的な考え方をどれほど身につけているかということを,従来の物理の調べ方の盲点をつくような検査問題を,各校に同じ形で課することによって調査しようとした」とするなかで,「検査問題」に注目する。
 それは,「……を知っていますか」「……をしたことがありますか」などというレベルの問題ではない。庄司晃和さんのように,認識の世界を「素朴的段階(第1段階),過渡的段階(第2段階),本格的段階(第3段階)」の3つの段階に区分けしたとすると,本格的段階(第3段階)の認識実態を「従来の物理の学力の調べ方の盲点をつくような検査問題」を通して洗い出そうとしたものだった。その「問題」作成のバックグラウンドに,板倉さんたちの科学史研究がある。「科学の歴史にみられる誤まった考え方が,科学教育の場でも見られるのではないか,という予想をたしかめるため」である。
 仮説実験授業を生み出す前夜に行れた実態調査,新しい科学教育を創り出そうとしている時に,自分たちの仮説検証の1つとして行われた実態調査一本物の実態調査とはそういうものなのだ。
 実態調査をやるなら,新しい授業の構想に結びつくような内容でやってもらいたい。「何が研究”らしいことをやりました」というアリバイづくりではないものを。
左巻健男 「おもしろ理科授業入門」1991年9月25日 初版 補章

「力学教育をどうするか」 林 淳一 『理科教室』 1983年Vol.26No.14

 はじめに
 近代自然科学のなかで,もっとも早く成立したのは力学であった。コペルニクスにはじまる地動説,とくにケプラーの惑星の運行とガリレーの落体などの地上の物体の運動とを,同じ基本法則(運動法則と万有引力の法則)で統一して説明できることを示したのは
ニュートンであった。
 プリンキピア(自然哲学の数学的原理)が出版されたのは1687年であり,力学の基礎が築かれたのは17世紀のことであるが,この基礎の上にさまざまな力学現象が解き明かされるには,解析学の発展が欠かせないし,力学の理論の形式と手法が完成するのは18世紀末までかかることになる。実さい,オイラーが剛体の運動方程式(1758年)と流体の運動方程式(1761年)を作り上げたのは18世紀の中ごろのことであり、ラグランジュの『解析力学』は1788年、ラプラスの『天体力学』は18世紀も終わりの1799年のことであった。
 こうした力学の成功は物理学の他の分野さらには他の自然科学にも強い影響を及ぼし,力学を典型として他の諸科学も整備されることになった。さらには,自然界のすべての現象が力学的に説明されうるはずだと考える18世紀の機械的唯物論を形成するまでにいたったといえる。
 いまさら,こんなことを言うまでもなく,力学を学ぶことは,物理学さらには他の自然科学を体系的にとらえるために欠かせないことである。しかし,上に述べたような力学の教育は,どのような段階でどのようになされるべきか,また,このような力学の教育がなされる以前には,どんな教育がなされるべきであるか,は明らかにされていないように思える。そこで,こういう問題をめぐって日ごろ考えていることを述べて,いわゆる“力学教育”をどうするかを考える問題提起あるいは素材提供をしてみたい。
“力学教材”はどうなっているか
 “力学教材”というコトバがよく使われているが,その場合の力学とは何をさすのであろうか。少なくとも,上に述べたような意味での力学とはどこか違っているのではないかと感じるのは筆者だけではあるまい。しかし,今のところ適当な換えるべきコトバが見つからないめで,ここでも“力学教材”というコトバを慣用にしたがって使うことにする。
 学習指導要領によると,小学校では1年に「動くおもちゃを工夫して作ったり動かしたりさせながら、風、ゴムなどのはたらきに気づかせる」、2年に「おもりで動くおもちゃを工夫して作ったり動かしたりさせながら、おもりの重さ、付け方などによって、動きの違いがあることに気付かせる」、3年に「閉じ込めた空気に力を加えたときの様子を調べ空気には弾性があることを理解させる。風車の回っている様子を調べ、風の強さによって物を動かすはたらきに違いがあることを理解させる」とある。4年に「てんびんを作って、そのはたらきを調べ、物の重さは天秤などで測れることを理解させる」、5年にはなくて、6年に「てこを使って、力の加わる位置及び大きさを調べ、てこの原理及びそれを利用だ道具について理解させる」とある。
 中学校では,学年指定はないが,おそらく1年を予想して力という項目があって,「観察や実験を通して,力の基礎的な性質,3力または3力が1点にはたらくときの力のっりて理解させ,力の量的な見方を養う」として,小項目に,力のはたらき,力のつりあい,圧力が上げられている。もうiつは3年を予想される運動とエネルギーという項目があり,「観察や実験を通して,物体の運動及び光・熟・電流のする仕事について理解させ,エネルギーの移り変わりについての初歩的な見方や考え方を養う」として,小項目に,運動,仕事,光・熱と仕事,電流と仕事,エネルギーが上げられている。
 高等学校では,1年に新設の共通必修科目「理科I」に力とエネルギーという項目があり,その小項目に,力と運動,落体の運動,仕事と熱・エネルギーの変換と保存が上げられている。
 2・3年で選択履習する物理には力と運動という項目があり,その小項目に,各種の運動(円運動・単振動,万有引力),運動量(運動量、力積、運動量の保存)、気体分子の運動(気体の法則,気体の分子運動)が上げられている。このほか,波動という項目があって小項目に,波の性質(縦波と横波,波の伝わり方,波の干渉・回折),音波「音波の伝わり方,共鳴,共振),光波(光の進み光の干渉・回折,スペクトル)が上げられている。(見やすくするためにゴチック体にしたのは筆者である)
 ここでは紙幅の余裕がないので“力学教材”以外の項目を掲げることはできないが,“力学教材”が理科のかなりの部分を占めていることは言うまでもあるまい。これだけ多くの時間をさいて多くのことを教えているにもかかわらず,大学に進んでくる学生でさえ力学の基礎が身についていないのは,狭い意味での教え方が悪いとかではなくて,もっと根本的なところに間違いがあるように思えてならない。
なにからはじめるか一初等教育
 先にもふれたように,力学は近代自然科学のなかでもっとも早く成立し,物理学の他の領域さらには他の諸科学の成立に当って,その典型として,またその基礎を与えるものとして,重要な役割を果した。それだけに原子論とともに力学は近代自然科学を体系的にとらえるために,また近代の自然観をとらえるためにも欠かせないものであり,力学教育の重要さは言うまでもないことである。
 しかし,子どもたちが,いや私たちが,私たちの身のまわりの自然の事物や現象をとらえていくとき,(その背後に力学の素養が欠かせないとはいえ)力学が直接前面に現われるようなとらえ方からはじめるわけではない。まず,現象の主役である事物とその性質
をとらえることからはじまる。それを量化してとらえるなどはその次のことであって,
それを力学法則を基礎に説明し予測するなどはさらにすすんだ段階でのことである。われわれが力学法則を意識するとしないとにかかわらず,どんな自然現象にも力学法則は貫徹しているし,それが力学の基礎を与えることにつながらないはずはないが,力学法則とその適用を意識的に問題にしない段階で,これを“力学教材”と言ったり“力学教育”と言ったりするのは適切でないように思える。こういう拡張解釈をすすめてい,くことが,力学法則とその意識的な適用を問題にする狭義の力学教育をどの段階からどのようにすすめるかを明確にすることを妨げているように思えてならない。
 話を元にもどすことにしよう。自然の事物と現象をとらえるには,まず事物そのものをとらえることからはじまる。ある場合には,それがわたしたちにとって何の役に立つものかという,どちらかと言えば社会的な効用から始まることさえあるように,狭い意味の自然科学的なとらえ方だけに限定できないこともある。前後,左右,上下など事物の位置関係,さらに,方位,時刻と時間などは事物をとらえるために欠かせない。
 事物をつくっている材料,金ものとそうでないもの,それらの中で重要なものとモれの特徴を知り,それを選りわけたり使いこなせるようになることも大切なことである。とくに,材料の機械的な性質を知ることの重要さを指摘しておこう。
 事物を量としてとらえるための物の重さ,事物が空間を占めている容積である物の体積などは,固体や液体状の物とちがって目に見えない気体をも物としてとらえるためにも欠かせないことである。
 事物を扱ったり作ったりするには,ハサミやノリや紙やすりやドライバーなどが使えなければならないし,切削や加工などり簡単な道具が使えるようにすることがたいせつでる。もっとすすんでは,テコや滑車や輪軸などの道具が使えるようにすることも必要であ
ろう。
 これらはすべて力学と密接な関係をもつものではあるが,力学教育というよりは,自然の事物をどうとらえていくかという観点から位置づけるべきで,これが初等教育(これをすぐ現在の小学校教育とはいえないかも知れない)で欠かせない内容であろう。蛇足かも知れないが,ここでは,力学法則を直接にも問接にも教えようとは考えていないことを付け加えておく必要があるかも知れない。
力をどうとらえさせるか一中学校
先に述べたようないわゆる近代力学の教育は,中学校になってもすぐ始められるわけではない。そのまえに,いわゆる静力学の基礎的な内容を学び使いこなせるようにしなければならない。
 力学で使う力の概念は元来筋肉の緊張感にもとづくものと言えるが,日常わたくしたちは,もっと広い意味に使っている。この力学での特定した使い方を身につけることのむずかしさは容易に解決できないだけに,今後のー層の検討が必要であろう。しかし,力の概念をどう形成していくべきかについては,かなりの蓄積がある。
 物体に力が働けば多少の差はあれ必ず変形やる。この逆に物体が変形しているときは,たとえ力が働いていることが直接にはわからなくとも,必ず物体に力が働いているはずだと判断できるまでになることが必要である。また,力は2物体の間に及ぼしあう相互作用であって,作用の力があれば必ず反作用の力があることをとらえさせる試みがなされている。  I
 とくに,板倉聖宣氏が仮説実験授業のテキスト「ばねと力」を提案し,「物に力がはたらくと,その力の方向に動きだす。反対向きの2つの力がはたらいて,一方の力が大きければ,大きな力の方向に動き出す」ことを力の原理として提起してから,この段階での力の学習は飛躍的に発展し実践的な裏づけもすすんだと言えよう。
 われわれの身のまわりの現象では,地球が物体に及ぼす重力(万有引力)を知ることは欠かせないし,物体を支えている抗力,モの動き出すのをさまたげているまさつ力などについて,モれを知り使いこなせることが必要である。この段階の力学では力の平行四辺形の法則を教えることが中心であるようになりがちであるが,これは重力,抗力,まさつ力なをとらえさせた上でのことであり,いくつもの力が働くときの合力の概念を与えること
が先で,その合力を求める方法として平行四辺形の法則をとり上げるようにしたいもの
ある。(極端な言い方をすれば,平行四辺形の法則など教えなくともよいとさえ言えるのではないだろりか。)
 今回の学習指導要領の改訂で,仕事は3年に追いやられて「運動とエネルギー」という項目のなかで運動の後で扱われることに変わった。これは,運動とエネルギーの学習の順序をどうするかという問題であり,早急な検討が望まれる。
 これまでのいわゆる力学教育では,運動法則とさ・まざまな運動を扱ってから,仕事,運動エネルギーと位置エネルギーの力学的エネルギーの保存を扱い,仕事と熱の同等性から一般的なエネルギーの転化と保存へと拡張するすじ道ができ上っている。この道すじを取るとすると,どうしてもエネルギーは,かな
りな時間を要する「力と運動」の学習をおえてからということにな,つて,エネルギーはかなり後でなければ教えられないことになってしまう。事実,エネルギーは3年の終りに扱うことになって,義務教育課程をおえるまでに,エネルギーを使って自然現象を追求していくことなどは不可能になってしまっている。果して,これでよいものだろうか?
 これは私見であるが,近代力学をとらえることはそんなに容易なことではないが,運動エネルギーや位置エネルギーは,運動法則などを知らなくとも,ある程度の理解はそうむずかしくはないし,使えるようにすることもできる。とすると,いわゆる静力学的な力の概念が使いこなせるようになったら,(運動法則などを学習させる以前に)仕事を教え,力学的エネルギーさらには一般的なエネルギーヘとすすむ学習を組むことができるのではないだろうか。これは単に力学教育の内部問題ではなく,義務教育課程における自然科学教育の教育課程を考えるさいに欠かせない問題であろう。
 いわゆる近代力学の学習にさいして,これまでも指摘されてきたように慣性の法則が使えるようにするのはむずかしい。これに加えて,にユートンの運動方程式か力と加速度の
関係式としてとらえられているために,2階微分量である加速度につまずいてしまう。それで,物体に力が働けばその速度が変わる。この逆に,物体の速度が変わるときには,物体に力が働いていることが直接にはわからなくとも,必ず物体に力が働いているはずだと考えられるようにすることを身につけさせるべきであり,これを使ってさまざまな力学現象をとらえられるように出来ればよいという考えが出されている。また,力学的な振動を扱い,とくに物には固有振動があることと共振を扱うことも提案されている。現行の中学校の理科では音波は扱うことになっていないが,振動を扱えば力学的な波動(音波も含む)も扱えるようにもなろう。
 もう一つ大切な問題として,力が物体を回転させる働きをあらわす力のモーメントは教えなくともよいのかという問題があるが,これも今後の検討をまたなければなるまい。
 以上に,種々今後に問題を残しながらも,少なくとも義務教育課程で教えておかなければこらないことを私見として述べてきたが,別の言い方をすれば,いわゆる近代力学を教えるのは高校教育あるいはそれ以後のことであろうということでもあることを申し添えておこう。
高校の力学教育の問題
 高校の選択科目としての物理では,力学の基本的な内容を,つまり運動の基本法則と,それを使って簡単な運動が扱えるようにすることを期待したいのだが,力学の内容が新設共通必修科目「理科I」と選択科目「物理」とに分断されていることが,まず問題になる。「理科I」では「力と運動」と「落体の運動」があり,モの内容の取扱いについて,直線運動における運動の法則などを扱うこととあるだけで,「物理」の中の「力と運動」は,各程の運動として,円運動,単振動,万有引力が扱われる。ことさらに運動法則という項目をかかげなくとも,その内容がとらえられればよいのだから,項目のあるなしは問わないことにするが,この部分が力学教育のもっとも中心をなすべきことであるだけに,「理科I」で扱い切れるのか? もしできるとすれば,その残りを扱う物理の力学はどんなことこなるのだろうという疑問も生じる。
 今年度から新しい選択物理は始まったばかむだから,今のところその評価は出来ないが,これまでの経験からすると,高校の力学はいわゆる試験問題を解くだけに偏って,簡単な力学現象を解き明かしていく力学に固有な方法,さらには力学が他の諸自然科学の典型と基礎を与えていることなどは扱われてもきていない。また,力がわかれば力学はわかったといえると言われるように,力というコトバは日常的な意味から,物体を変形させる力,さらには物体の運動状態を変える力と,同じ力というコトバを使いながらも,力というコトバで表現される内容の理解は深められていかなければならない。そのさい,E.マッハの指摘を待つまでもなく,物体の運動状態を変える力の概念をとらえることは,簡単なように見えて生やさしいものではない。というのは,教科書的な問題でない現実の力学現象の多くでは,どんな力が働いているかがまずわかっているわけではない。力がわかっていれば運動方程式を数学的に解くことと,これを実さい当てはめる問題にすぎないが,実さいには運動の現象的なとらえ方は一応できていても,そこにどんな力が働いているかがわからないのがふつうである。つまり運動状態の変化から力を知らなければならないのである。こういう力のとらえ方ができるようになることは容易なことではないかも知れないが,力学をとらえるためには欠かせないことである。
 本格的な力学の教育をどりするかは,これまでほとんど手のつけられていない問題だけに,それをどうするかを明らかにすることは大変な問題である。もっと直接的には,高校での力学教育は,中学までの教育をふまえて何を目標としてどう組み立てていかなければならないかの議論を起すことからはじめなけ
ればなるまい。
 力学教育については,このほか論ずべき問題は多々あるが,与えられた紙数もづきたので,これくらいにさせていただくが,本格的に検討がはじめられることを期待したい。
(東京歯科大学)

2013年1月11日 (金)

既成のモデルロケットをDIGMINIカメラ搭載型に改装

FLYING MODEK ROKET 「BULL PUP 12D」

SCALE MODEL OF THE USAF AGM-12D BULL PUP AIR-TO-GROUND MISSILE!

Recommend Engines:A8-3,B4-4,B6-4,C6-5 FLIES OVER 245m!

を改造しDIGIMINI搭載モデルロケットに改造する。

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新しいノーズコーンを付けたBULL PUP 12DとDIGIMINIカメラ
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ノーズコーンの切り取る部分をB2の鉛筆で書く
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お湯で暖めながら成形されたノーズコーンとDIGIMINIカメラ
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DIGIMINIカメラをノーズコーンに装着
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ペットボトルから切り出したプラスチックの板とDIGIMINIカメラ装着ノーズコーン
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プラスチックの板の上部をスキーのラッカーを溶かす道具で成形
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成形されたプラスティック板
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錐でねじ穴を開ける
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木ねじを取り付ける
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木ねじをドライバーでねじ込む
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木ねじで固定されたプラスティック版
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完成したノーズコーンの裏側
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完成したノーズコーンの表側
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改造されたノーズコーンを装填されたBULL PUP 12D
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圧力中心Cp(Center of Pressure)と重心Cg(Center of Gravity)を測定する。
1回目
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Cp値とCg値をモデルロケット本体にB2の鉛筆で記入する
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計測 約10mmでボディチューブの直径は33っmなので不安定なフライトになるためCp値をもう少し後部にくるよう尾翼を改造する。

2回目
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Cp値をボディーチューブに書き込む
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計測 Cp値とCg値の間隔は18mmでこれも不安定なフライトになるためダメ
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3回目
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Cp値を書き込む
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Cp値とCg値の間隔は31mmでほぼ合格なのでこれで尾翼を成形してみるが尾翼を大きくする分Cg値が後方下がるため再度改造が必要となる。
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フィン(翼)の改造
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完成間近
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重力中心をもとめます。
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追加したフィンの重さのためにCg値(重力中心)が後部へ移動していることが分かります。

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糸ハンダをノーズコーンの内部に装填しCg値を先端側へ移動させます。
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Cg値を求めるためバランスを計ります。

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Cg値が元の位置に来ていることが分かったのでこれで完成です。あとは塗装しストリングテストをおこない安定性を確認します。
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機体重量が117.5gとなったので高度計算をしてみました。

「B6-4MINIDIGIV1.pdf」をダウンロード

結果

打ち上げ後3.5秒で最高到達点55.5813mに達しノーズコーン放出時間4秒後には55.4778mに達し安全なフライトになることが分かりました。

2013年1月 7日 (月)

水ロケット打ち上げ実験

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2013年1月 4日 (金)

水ロケットの研究 札幌市立八軒中学校 科学部 平成元年

1。研究の動機
  部活で先生がこの水ロケットの実験を提案してくれ、1.5とのペットボトルと空気入れなどの道具で本当にうまく飛ぶのだろうかと疑問をいだき、私達は研究してみることになった。

2。研究の目的
 空気の圧力で水がふん射して飛ぶロケットの秘密を探る。

3。方法と結果
  〔準備〕1.叩ペットボトル・空気入れ・ゴム管・ゴムせん・木材の発射台・ビニールテープ
  〔方法〕 ロケット(ペットボトル)に水を入れ、そのロケットを発射台の中に入れ空気入
             れのゴム管につなぐ。その後、空気入れを押して、ロケット内に空気を送る。
  〔結果〕 ロケットは空気の圧力により、ロケットが発射する。
  〔反省〕 成功より失敗した方が多く、その原因としては、主に、ゴム管のゴムせんがは
            ずれることであった。その他にはゴムせんにペットボトルをつな、ぐときに、つなぎ
            方がゆるかったことや、空気入れの押し方が弱かったことである。

〔エピソード〕
     実験中に、たいへん苦労したことは無数にあった。
     一番多かったのは、風による失敗であった。その他に、ロケットの水が吹き出し
      て、メンバーが水びたしになったこともあった。

4。全体の反省
 ・ゴムせんがよくはずれて実験がストップしたことがあったので、ゴムせんをどのようにし
  て、じょうぶに作るかを考える。
 ・飛ばしても、高く上がらないロケットがあったので、その原因を調べてみる。

5。課  題
 ・2つのロケットを同時に飛ばす。
 ・ロケットの飛ぶ高さを高くする。
 ・ゴムせんがこわれないように、じょうぶに作る。
 ・火薬ロケットの計画をたてる。

6。一人一言            ト
 ・この研究をして充実な日々がおくれた。(副代表)
 ・水ロケットを卒業して、なるべく早く火薬ロケットにとりくんでみたい。(代表)
 ・この研究をしてみて良い経験をしたが、ロケットをもっと高く飛ばしたい。(河村)

2013年1月 3日 (木)

フィルムケースロケット

今は貴重品になった各種フィルムケースです。

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いくつか選んでみました。今回フィルムケースロケットで使用するのは右のフジフィルムケースです。
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水を入れたフィルムケースと入れていないフィルムケースを用意します。

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今回フィルムケースロケットで使用する発泡剤はバブです。

右のビニールに入っているのはバブを砕いたものです。ここら適当な大きさのバブを使用します。
 
 
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フィルムケースに水+発泡剤

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フィルムケースロケットの中で二酸化炭素が発泡しています。

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これでフィルムケースの蓋をして逆さにするとフィルムケースロケットになります。

フィルムケースロケット発射の瞬間

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2013年1月 1日 (火)

2013年初頭にあたって

明けましておめでとう御座います。

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 いよいよ北海道モデルロケットクラブ創設20周年の年になりました。長い道のりながらモデルロケットの「自作機」「サンダーバード3号」「アポロ11号」等々、デモフライをやってきました。今年はMINIDIGIを使用した動画撮影やデジタルムービーカメラEXEMODE のDV520を使用したD12-3の3束ね式モデルロケットのデモフライとを計画中です。

 またロケット教室として、フィルムケースロケット、ペットボトルロケットを打ち上げることによってロケットの推進力の学習も計画します。

 さらに、私事ではありますが、OLYMPUS PEN mini E-PM1 ツインレンズ(M.ZUIKO DIGITAL 17mm 1:2.8,OLYNPUS DIGTAL 14-42mm 1:3.5-5.6)を購入しました。あとはConverter MCON-P01を購入したいと思っています。
Photo

 これでマクロ撮影によってより繊細なモデルロケットの構造や製作過程を紹介できるようになると思われます。これからはより精度の高いモデルロケットを紹介していきますので今後の活動にご支援のほどお願いします。

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