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2013年1月23日 (水)

理科の導入指導=定石とプロのわざ (西村功)「授業研究」1987.9 No.315

-授業のゆくえと深まりを創るー
1 パターンの陥穽
 理科の授業を参観するごとに、自分もそうではないだろうかと、自省させられる。
 教師は、子どもに「わからせる」こと、「わかった」といわせることをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 教師は、子どもが「はたらきかける」ことをタテマエとしているが、子どもに「させる」ことをホソネとした授業をしがちではなかろうか。
 パターソ化されたような授業をたどってみると、それは明白である。
 ① 「この前どんなことをしましたか」
 教師が問う。しかし、子どもは印象に残ったことだけをを考える。そこで、さらに問う「そのとき、どんなことをしましたか」。さらに「もっと大事なことをしましたね」といっても「大事」という教師側の価値におののいたように、子どもは沈黙に陥ってしまう。
 「こんなこと」「もっとほかに」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こ’うなると、不確実にしたまま、「では」と「次段階」へとなり、あとは、活動だけ
があり学習のない授業になりがちである。
 ② 「この前、どんなことがわかりましたか」
 教師にとっては、本時への飛躍のために問うたつもりである。しかし、子どもは、はたらきかけたこと、そこに、あらわれたことだけを考える。そこで、さらに問う。「そのことはどんなこと」とか、「そのことから」と事象の意味づけを問う。子どもは「こうしたら、こうなった」という事実をいうだけで精一杯のことが多い。
 「したことで」 「たったことで」を反復しているうちに一五分程度を経過してしまう。こうなると「こんなことがわかった」はずということを強制・強要して、「つぎ」へと進行する授業になりがちである。
 ③ 「長びら」の設問貼り
 研究授業といえば、どのように問題をもたせるか、板書はどのよう。におこなうか、教師はさまざまに思い廻らす。
 模造紙を長く切り、そこに、マジックインキで教師の意図したことを書いておく、これが「長びら」である。
 「では、今日はこんなことを……」と、黒板に「長びら」が貼られる。
 子どもは、異様な目で見る。なかには「なあんだ。そうだったのか」とか「先生、もっとはやく出してくれたらよかったのに」ということさえある。
 子どもが問題を持つ学習に対し、「長びら」は子どもに問題を示す、与えるということを露呈している。
 ④ 「確かめてみましょう」
 教師は、子どもの学習活動が考えに根ざし筋道に立ったものでありたいとねがっている。子どものすることが確かな考えをもとにしたものでありたいのである。そこで、子
どもが「したい」 「みたい」というと「確かめてみましょう」という。
子どもの考えが十分に深められていない状態にあっては「確かめ」にはならない。また、たった一回だけ「する」「みる」では「確かめ」にはならない。
 教師の口ぐせのような「確かめてみましょう」は、慎重な指導のもとに、’子ども自身が心の中から吐き出してきたときこそ真のものとなるのである。
 ⑤ 「調べてみましょう」
 教師は、子どものおこなう観察・実験がしっかりとした観点をもつものでありたいとねがっている。また、条件に基づくものでありたいのである。そこで、子どもが「する」
こと「みる」ことを「調べてみましょう」という。
 ときとしては、導入時において話し合い活動が中断したままになったときさえ「とにかく調べてみましょう」という場面さえ目にする。さらに、子ども達が問題を意識できないときさえ「とにかく調べてみましょう」ということを目にすることがある。
 難渋した授業に、打開策として発せられる「調べてみましょう」は、何らの呪文にもならない。
 子どもにとっては「したい」 「みたい」というだけでなく、より精細に、より焦点的に目を見開くようになったときこそ真のものとなるのである。
 これらのほか、理科の授業においては、
「なぜだと思いますか」という「なぜ」
「予想をたてましょう」という「予想」
これなども安易に発せられていることである。しかも、授業における難渋を素通りしていくためのものでしかない実情はないだろうか。
2 物・こと・場を子どもが問う
 子どもも教師も、理科の授業の特徴は観察・実験にあるという。つまり「物」を対象にしたり「現象」を対象にしたりすることをいう。
 ところが、ときとして「物」や「現象」を見せないで、教師の問いかけからはじめていく授業を見る。ときには、わざわざ隠しておくことに苦心している授業さえある。
 難渋した話し合いの末、教師が「物」や「現象」を見せると、子どもは「なあんだ」とか「ほら」とかいったあと 「はやく見せてほしかったのに」と不平さえいう。
 プラックーボックスの手法でも「中を見せてほしい」というだけの授業がある。
 見せない、しない、の代わりに教師が問いかけても、子どもにとっては具体的にはならないのである。
 見せることによって具体的に問う。することによって具体的に問う。これが、子どもと対象とのかかおりをつくることなのである。
 見て、子ども自らが問う。することで、子ども自らか問う。理科における問いかけ・発問は、子どもと対象とのかかわりが大きな機能をもっているのである。
 本稿では、「磁石」によって考察しよう。
 ① 「物」がある授業をつくる
 子どもは磁石を見たとき喜ぶ。「磁石だ」とか「こうやって遊んだりとか「こんなことができる」とかいう。それぞれ自分なりの磁石についての経験をもとにいう。
 こうなると、子どもの見た磁石は単なる物体ではなく、さまざまな現象をひきおこし、さまざまなはたらきをひきおこすことをイメージにもったものになる。
 「物」こそ、子どもの情意をかきたて、子どもの活動を促し、さまざまな試みを誘う鍵なのである。
 ② 「こと」(現象)がある授業をつくる
 子どもの目の前に磁石を置くだけでは授業にはならない。それは、磁石だけでは何もおこらないからである。
 このようなとき、子どもは「こうしよう」とか「こうしたら」という。「物」だけでは授業にはならないのである。
 磁石にそっと近づけた鉄くぎが、とびつくように引きつけられると驚く。どこがいちばん強くつくか。つくこと、つまり「こと」という現象が対象になっていく、これが、
一年生「じしやく」の学習とされているのである。
 磁石についた鉄のくぎに、さらに鉄のくぎがつき、鉄くぎが繋がってつく。つくことから繋がってつくことに子どもは目を見張る。より深まった「こと」という現象が対象
になっていく。これが三年生「じしやく」の学習とされているのである。
  「物」そして、物による「こと(現象)」があってこそ授業となるのである。
  「こと」こそ、子どものはたらきかけを促し、対象を考え、認識を深める鍵なのである。
 ③ 「場」(状況)がある授業をつくる
 子どもは磁石でいろいろなことをしようとする。しかし主たることは「つく」かなということをする。
 磁石に何本もの鉄くぎが繋がってつく。磁石の力は強いという。ここでも「つく」ことが関心である。
 ところが、ここへもう一本の別の磁石がはたらきかけると局面は大きく変わる。
 もう。一本の磁石の端を近づけたとき、繋がっていた鉄くぎが引きつけられるときと、繋がっていた鉄くぎが退くときとがあるのである。
  「引きつけられること」と「退けられること」という、「こと」の対立がおこるのである。こうなると、単独の「こと」ではなくなり、「こと」と「こと」とが相乗してくることになる。
 これが、新たな「場(状況)」となってくるのである。
  「物」とかかわる授業から、「こと」とかかおる授業、そして、「場」とかかおる授業になったときこそ、ひろがりと深まりとなっていくのである。
 授業では、このように「場」をどのよう・に構成するかがたいせつなのである。
  「物」を見せる。「こと」を見せる。そして、「場」を見せることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「見る」ことがなくては学習にはならないのである。
  「物」によってする。「こと」をする。そして、「場」とかかおりをもってすることによってこそ、具体物とかかおる理科の授業となるのである。
 子どもにとっては「する」ことがなくては学習にはならないのである。
 身近な自然から子どもが学ぶという授業は、自然における「物」、自然における「こと」、自然における「場」から創ることなのである。
 具体的事象から子どもが学ぶという授業は、具体としての「物」、具体としての「現象」、具体としての「場」から創ることなのである。
3 子どもに「自問」の場をつくる
 理科の授業では、観察・実験が重視される。
  「理科だから、どんな観察・実験させようかな」という教師のひとりごとは、観察・実験のない理科の授業はあり得ないという潜在意識をあらわしている。
 これが、「物」 「こと」 「場」として工夫される。
 そして、さらに教師はいう。
  「子どもは、どういうかな」
という教師のひとりごとは、子ども自らが「問う」ことの重視をあらわしている。
 そして、「こういうだろ。う」ということ以上に「こういってくれたらよいのだが」と期待する。さらに、「ぜひ、こういわせたい」ということになる。
  「物」「こと」「場」と子どもとのかかおり、子どもの内面をこのように創りたいということを、「こういわせたい」 「こう問わせたい」というのである。
  「こういうことを、いわせよう」
という教師の構想は、いくつかの段階をもつ。磁石に繋がってつく鉄くぎ。三年生の子どもに、別の磁石で鉄くぎの「横取り」をさせる。
 そして、子どもが「問う」ことを創る。
 ① 「できるはず」だといわせる
 子どもは「したい」のである。そして「できる」から行動するのである。そして「できるはず」という考えによって行動するのである。
`「したことがあるから」 「できるはず」という。つまり学習経験があるから「考える」 「する」 「しよう」が結びついてくるのである。
  「できるはず」ということは、経験を思いおこす。経験をもとに考えをまとめる。経験をもとに体験していく。既知から未知をたどる糸口になるのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎの「横取り」は、鉄のくぎは磁石についた、磁石で鉄のくぎを引きつけたという経験から「できるはず」というのである。また、磁石は鉄
を引きつけるという知識から「できるはず」というのである。
 したがって「できるはず」ということは、「自問」であり「自答」なのである。
 ② 「おや」「おかしい」といわせる
 子どもは、できないときでも「したい」のである。だから、できないときでも「そうか」 「それでよい」とはいわない。ときには反復してみる。そして、「おや」 「おかしい」という。
 「できるはず」が覆った驚き、不満。そして、「できるはず」とは別の事実として認めはじめたとき「おや」 「おかしい」というのである。
 「おや」「おかしい」ということは、自分の意識とのずれの発見であり、未経験の発見である。そして、既知のなかの未知の意識化なのである。
 磁石に繋がってついている鉄くぎに、別の磁石を近づけたとき鉄くぎは逃げるように退く。子どもにとっては、引きっけられ、横取りされるはずなのに現象はまったく逆に
なる。驚きであり、不満であり「おや」 「おかしい」ということになる。このことは「なぜか」 「どんなわけで」という意識と共存しているのである。
 したがって「おや」 「おかしい」は、「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ③ 「こうしたら」「こんなとき」といわせる
 子どもは未知の事象に出会うと驚く。そして、考える。「どうしても、こうなるのだろうか」と、もう一度やってみる。そして、反復する。
 反復するときの子どもは慎重である。「こうなるのは」「どうしてか」ということと、「どうしたときか」を見ようとする。
 子どもの慎重な試みは、時間を細分するように順序を意識して進行していく。「いつ」 「どんなとき」かを慎重に追究していく。また、空間を細分するように部分を意識し
て進行していく。「どこ」 「どれで」かを慎重に追究していく。
 磁石に繋がってついている鉄くぎが、別の磁石を近づけたとき逃げるように退いたり、逆に、とびつくように引きつけたりする。「ほら」 「やっぱり」だという事実の肯定
は、「この」磁石で「ここへ」近づけたという「こうしたら」「こんなとき」ということになる。このことは、発見であり、現象や操作をもとにした帰納・帰結である。そし
て「ここ」「このとき」には「わけがある」が共存するようになるのである。
 したがって「こうしたら」 「こんなとき」は、帰納から意味づけをしようとする「自問」をより強化していくことになっているのである。
 ④ 「これでもなのか」「これでなのか」といわせる
 子どもは、新たな事実に出会うと、これをもたらしたものに驚く。そして、そのものについて考える。そのもののはたらきとして認める方向で考える。「これで」 「こんな
ことが」おこるのか。「これに」 「こんなはたらきが」あるのかと考える。
Photo
磁石に繋がった鉄くぎが、別の磁石によって逃げるように退いた事実、これは、図Aでは「もう一つの磁石によっておきた」「もう一つの磁石のはたらき」として意識され、もう一つの磁石の「これでなのか」ということになる。
 子どもが、ここまで追究してくると、近づけた磁石だけの「これでなのか」という終結にはなりにくくなる。それは、鉄くぎ全部とってしまったらどうかということである。そして、鉄くぎがなくなった磁石と磁石とではということである。
 磁石と磁石での「これでもなのか」と、子ども自らがきりこんだ「自問」を創る。
  「これでなのか」もしれないという子どもの意識があってこそ、根本に迫っていくことになるのである。
 そして、「これでなのか」ということは、「これでもなのか」と、これまで見てきた事象とつながりをつけていくことになるのである。
 磁石に繋がった鉄くぎと磁石とで見たことが、磁石と磁石とでも起るのだろうかというとき、「これでもなのか」という意識とともに、磁石どうしなのかもしれないという
 「これでなのか」もしれないという意識がある。
 さらに、もっと別の磁石どうしの「これでもなのか」と拡がり、それらの同一性から、磁石ではという[これでなのか]という深まりをもつようになるのである。
 したがって、「これでもなのか」 「これでなのか」は、焦点化していく「自問」、一般化していく「自問」になっているのである。
 子どもに自問の場を創り、自問の内容と質を創っていくことは、授業の深まりを創ることである。
  「できるはず」だという既知から未知への「自問」。
  「おや」「おかしい」という未知から疑問への「自問」。
  「こうしたら」「こんなとき」という帰納から意味づけへの「自問」。
「これでもなのか」 「これでなのか」という普遍から帰納への「自問」。
 子どものつぶやき、問いかけが、内的活動の深まりそのものとして力強く行動をひきおこさせたとき、授業は活気に満ちたものになり、子どものものとなるのである。しか
も、行動の軌跡とともに確かな知的生産となるのである。
 子どもに「自問」の場を創らせることが授業の布石となるのである。
4 教師が求め創り続ける授業
 理科の授業を参観したあと、研究協議会がおこなわれる。その研究協議会では、授業者自評がおこなわれることが多い。
 さて、自評をたどってみよう。ときとして、「昨日はうまくいったのに、今日はだめでした」
「同じ物で別の学級でやったときはうまくいったのに、今
日の学級ではだめでした」
「同じ教案・指導計画・展開案で、別の学級でやったときはうまくいったのに、今日の学級ではだめでした」
などを聞かされることがある。これらには、「うまくいくはずだった」という考えがうかがわれる。
 では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいかなかったのか」同じ物・同じ計画だったはずである。
  もっと、つきつめていえば、「学級がちがえば」 「授業 にちがいができた」のはなぜなのだろうか。学級のどのよ。うなことによるのだろうか。
  どうやら、授業は外的条件だけでは決定しないようであ る。
  さらに、自評をたどってみよう。ときとして、
 「はじめから、あのところまでうまくいったのに、あのあ
 とからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなことをしたので、あのあとからだめでした」
 「あのときまでうまくいったのに、あの子があのようなこ とをいい出したので、あのあとからだめでした」
 などを聞かされることがある。これらにも「うまくいくは ずだった」という考えがうかがわれる。
  では、なぜ「うまくいくはずだった」のに「うまくいか なかったのか」そこには、あのようなことをする子どもが いないはずだったのに、いたのである。また、あのような ことをいう子どもがいないはずだったのに、いたのである。
  してみると、教師の考えていた域とは別の子どもがあっ たのである。どうやら、教師の子どものみえ方に根源があ りそうである。
 「うまくできた学級」と「うまくできなかった学級」それは、別々の学級である。そして、別々の子ども達である。
 A学級とB学級での差異、それは、どのような差異だろうか。
 学級という集団を成員にもどしてみると、個別的に差異のある子どもの学級集団である。
 学級を学ぶ集団としてみたとき、学び方に差異のある学習集団である。
 学級を教師と子どもの集団としてみたとき、担任教師に若干ながらも差異のある人間集団である。
 学級を育ちつつあるものとしてみたとき、育ち方に差異のある成長集団である。
 つまり、学級としての内的条件に差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 また、子どもとしての内的条件にも差異があり、外的条件だけが決定条件ではないのである。
 同一結果に導き、同程度の成果に達するには、外的条件のほか、内的条件の背景が同条件に整備されていなければならないのである。
 学習経験や生活経験。子どもひとりひとりの個性と集団とのかかおり。さらに、情況などが学習指導において重視されるのは外的条件・物的条件だけで決定しないからである。
 「定石」ということについての定義と条件具備は、教育においては極めてむずかしいことである。
 「定石」存在、「定石」重視の囲碁や将棋においても、定義や条件具備はむずかしいのではなかろうか。
 それ以上に注目しておきたいことがある。囲碁や将棋においての「定石」は多数であるという実態である。しかもさらに、新しい「定石」が創られ発見されていく実態である。
 それは、つねに「定石」を超えた布石を求め、「定石」を超えた棋譜を創っていく情熱と工夫によるものである。 同一教師であっても、経験の程度によって授業に差異があらわれる。また、担任した学級のようすにょって授業に差異がある。モの中で、教師はつねに新たな自分の指導観を創り上げているのが実態ではなかろうか。
 自ら「定石」を創り、「定石」を創り変えていく教師で
ありたい。
 ただ、教師はつねに自分の授業を研究報告として公表し合い、それぞれの、「定石」をそれぞれにとりいれ、自分の授業の創造という[定石]化に効率を求め合いたいものである。
        <東京都板橋区高島平 高島第七小学校>

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