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2013年1月24日 (木)

理科の発問づくり=定石とプロのコツ (須藤 芳文)「授業研究」1987.10 No.316

    1
 理科教育の大きな特徴として、迫り方の多様性が挙げられる。
 同じ教材でもねらいによって、あるいはまた、どこから切り込むかによって迫り方が異なる。流行もある。理科をやる教師は、こうした研究に熱心であり、それを独創性、独自性として得意に思う傾向がある。
 しかし、こうした熱心な取り組みにもかかわらず、依然として理科はよくわからないという人が多い。
 わからなさの原因は何なのか、一ロでいうと、「他にはっきり分かち伝え、共有財産化していこう」とする意識の欠如である。そのため、書き方にも問題がある。時には、
事実を越えたことまで平気で書いているケースも見られる。このままでよいのであろうか。否である。
 独創性、独自性も大事だが、共通の土俵に立って論議を深めていくことは、今、より重要な課題である。そうでないと、いつまでたっても、現状のわからないという状態か
ら抜け出すことはできない。
 共通の土俵に立つと、授業のよしあしについて、的を絞った論議がなされるようになる。実践を示す人も、検討しやすい形というものを考えるようになる。そうなれば追試
が行われ、授業づくりが一段と明瞭なものになっていく。
 今、追試が全国的に盛んである。国語科や社会科には遅れをとったが、理科の世界でも追試が活発に行われるようになってきた。
  『理科教育別冊』誌(明治図書)のNo.11では、「授業に自信がつく理科『追試』事例集」、翫12では「理科発問の定石化事例集」ということで特集が組まれている。発問を研究しようとする教師にとっては、必読の書である。
 追試論については、『社会科教育臨刊』 (八七年五月号明治図書)で特集が組まれているが、この中で向山洋一氏は、「『追試』から『発問の定石化』へ」と題して提案されている。これに対して岡本明人氏は、「『追試』から……」の「から」を問題にしておられる。そして、追試を上達論と研究方法論とに区別してとらえるのは誤りであると主張
されている。
 私自身のことを考えてみる。向山氏の『春』とか『とび箱』の実践を目にした時は、とにかくすごいと思った。そして、何とかしてこういう教師になりたいものだと思った
ものである。当然、追試をしてみる。この時は、とにかくそのすごさを共有したいと思った。
 法則化運動には若い人がたくさん参加しておられるが、この時の私と同様の気持ちになっている人が多いのではないだろうか。こういう状況を考えると、向山氏の言われる 「『追試』から『定石化』へ」の意味がよくわかる。
 しかし、追試を三つ、四つとやっていくと、単にすごさを共有するのと少し違ってくる。すごさの共有は当然のこととして、なぜこの実践はすごいのかを分析的、研究的に
見ていくようになる。上達論と研究方法論は明確には区別はできないが、年齢とか追試の量によって自ずと重点の置き方が異なる。追試をすればするほど、より研究的視点で
ものを見ていくようになる。
 向山氏と岡本氏では、語りかける対象が異なるのではないか。私はお二人の論文を読んで、そこに追試の上達論を見る思いがした。
 さて、『理科教育別冊』誌に話を戻すが、理科の場合は遅れてスタートした分、岡本氏の論に近い考えが多く見られる。つまり、上達論と研究方法論を同時的に報告してい
るものが多い。
 この報告を読むと、理科においてもいくっかの教材について、定石化が進んでいることがわかる。
 定石化とは、ある教材のある場面について、一つの
有効な手筋と手順が明らかになり、共有財産化されて
いくことと考えている。
有効な、ということは、子供の心や頭がよく回転し、意欲的に学習していく状態をさす。定石化たるか否かは、追試によって証明される。時間に及ぶこともある。授業には流れがある。流れがI区切りつくまでを単位とする。だから、発問づくりを考えていくということは、授業づくりそのものを考えていくと言い替えてもよい。
 さて、どんな教材で定石化がなされつつあるか、例を挙げてみる。
  「うさぎを正しく観察させる方法」 (一年)―この実践については、杉山裕之氏がよりわかりやすい形にされ、そちらを追試する人もいる、「空気はちぢむか」 (三年
向山実践)、「じしやく」 (三年)。
 その他、「豆電球とかん電池」 (四年 向山実践)、「誰でもできる楽しい理科の実験㈲-てこのはたらき」 (六年)I-Iこの実践については、三浦一富氏がすばらしい追試報告をされている、「てこの原理の発見は十分な体感から」 (六年 府中市理科部実践 藤平洋子氏報告)なども有力な候補である。また、拙著『理科発問の定石化』 (明治図書)の中でも、さらにいくつかの実践例を示しているので追試していただきたい。
   
 発問づくりの腕を上げていく上で有効だと思われることを、もう一歩進めて述べてみたい。
 1 どんな時、発問が機能するかを知る
私は発問が機能しやすい場面を一応、次の三つのケースに分けて考えている(今のところ)。
① 動物や虫など、その物の名前を言っただけで、とにかく見たい、触りたいというヶIス たとえば、「かわいいどうぶっIうさぎの観察」(一年)、「虫の育ち方」(四年)
② その物を日常よく目にしたり、触ったりしており物を見せただけで、触りたい、遊びたいというようケース たとえば、「じしゃく」・(三年)、「豆電球とかん電池」(四年)
③ 子供の頭の中が、誤った考えで支配されているよ うなケース たとえば、「温度と空気・水」(四年)、「いもの育ち方2」(四年)
 ①と②は基本的に同じようなものだが、①は観察教材を意識しており、②は実験教材を意識している。三つのケースに共通していることは、子供たちがその物や現象を日常
よく目にしたり、手にしたりしていることである。こういうケースでは、発問や指示の視点がしっかりしていれば、子供の心と頭はよく回転する。
  なお、発問づくりの難度であるが、③が一番難しい。なぜなら、一段落するまでの時間が長めであり、発問も連続 性を要求されるからである。続いて、②、①となる。ついでに述べるが、子供がその物をあまり知らないという場合はどうするか、実は、理科の場合は、こうしたケースがけっこう多い。こういう時は、遊びや試行活動、観察調査などを取り入れる。とにかく情報を与えること、共通体験化を図ることが是非とも必要である(しかし、そうは言っても、なおかつやっかいな教材があることも事実である)。
 2 子どもをとらえる
 私は、「子供にとって役に立つ授業をしたい」といつも願っている。こう考えるのと、教科書に教材があるからと考えるのでは、少々違う。後者のように考えると、何とか
して理解をさせねばということに重点が置かれる。そうなると、教材の論理が優先し、子供の願いや思い、疑問などが横の方に置かれてしまったりする。それに対して、「役
に立つ授業」という考え方に立つと、「子供の心や頭の中に沿った授業づくり」を心がけるようになる。
 そのために私がよく行うのは、事前調査である。本誌八七年一月号では、三年「じしやく」についての事前調査を示した。ここでは、子供の反応が五分五分に分かれる場面が見つかった。当然、授業はそこを中核にして構成していった。
 また、四年「虫の育ち方」という単元の事前調査では、女の子の虫嫌い、男の子の虫に対する思いやりの心の足りなさが目についた。こうなると、その二点を配慮した授業づくりをしていくことになる。
 まだまだ例はあるが、ここでは述べきれない。事前調査は、慣れないと調査項目ばかりが多くなり、そして結果的には、何が何だかわからないということになる。
 事前調査には前提条件がある。それは、
教材研究をやり、自分なりの仮説を持つこと
である。そうでないと、見えるものも見えてこない。事前調査には、二つのポイントがある。
①既習事項の定着度・経験の有無を調べる。
②未習事項の一部を問い、探りを入れる。
私の場合は、絵を描かせるとか文を書かせるなどして、事中においても子供の考えをとらえるようにしている。こうした授業づくりを考えると、授業スタイルについて
もあれこれ考えるようになる。授業であり、それぞれ好みというものもあるだろう。それはそれでよい。好みのスタイルで通せる時は問題はない。しかし凝り固まって、何が何でもと考えるのはいかがなものか。私は、場面によって発問を中核とした授業づくりをしたり実験・観察主体の授業をしたりする。どちらかというと、かなり柔軟だと思っている。その方が自然だし、子供を生かしたものになっていく。
 3 発問づくりのポイントを知る
 発問が機能しそうな場面を見つけたなら、次には具体的に発問を考えていく。その時、心がけていることが三つある(これも今のところ)。
① 意表をつく
 発問が機能するヶIスについては前述した。よく目にしたり、手に触れたりしていることをその一つに挙げた。こうした状況で、あたりまえのことをあたりまえに聞いても
子供はくいついてこない。こういう場合は、意表をつく発問が要求される。意表をついた発問は、子供の心と頭を新鮮にする。視点の新鮮さでは有田・向山両氏の実践がぬき
んでており、私もずい分刺激された。
 一つ例を挙げてみる。四年「いもの育ち方㈲」では次のように授業を展開していった。
  《一時間目》
 ―日なたと日かげに植えてあるジャガイモをそれぞれ一株ずつ掘り起こす。根をきれいに水洗いして、ポリバケツに入れておく(水も入れておく)。
●現象提示1-みんなに見てもらいたい物があります。 これです(と言って、日かげの方の株をポリバケツから 取り出して見せる)。
  根をきれいに洗ってあるので珍しいのか、子供は「オ ーごと声を上げる。
●現象提示2ーもう一つのジャガイモを見てもらいま す(今度は日なたの方の株を取り出して見せる)。
  こちらの方は根も大きく、子いももたくさんついているので、「ウオーツ、スゲことひときわ大きな声を上げる。
●子供を一人前に呼び出し、この二つの株を持たせる。も して、重さの違いを確かめさせる。
   「Aの方(日なた)はすごく重い。Bの方(日かげ) は軽い」と、みんなに教えてあげる。
指示1 この二つのジャガイモを見て、違いをノートに書きなさい。
実際に触らせるとなおよい。
 茎の太さのこと、子いものこと、葉の数、大きさ、色のこと、根のことなど次々と発表が続く。そのうち、Aは日なた、Bは日かげで育った物ではないかと話が進んでいく。
 正解を教える。やっぱりという表情である。
 そこで、次の発問をする。
 (カッターを取り出す)何すると思う? このたねいもを切ってしまいます(と言って、ロなたの方のたねいもを切り離してしまう)。さて、この子いもは大きく育っていくだろうか。
 こう問うと、「育つ」とか「育だない」と叫び出す。考えをノートに書かせる。この話し合いはおもしろい。指示一で出されたことをもとに、次々と話し合いが進んでい
く。その結果、「たねいもの役目はもう終わっていること」 「葉でデンプンがつくられて子いもは育っていく」という二点に考えが集約されていく。(※たねいも説を強硬
に主張する子供がいたら、切ったたねいもにヨウソ液をかけて見せるとよい。まったく反応しないのを見て、考えを変えていく)
 この場面については、合計三度授業をする機会があったが、たいへんおもしろい話し合いになる(原型は拙著『理科発問の定石化』に載せてある)。
 理科の場合は意表のつき方が二通りある。一つは、今、示したように現象提示とタイアップさせる方法。もう一つは、言葉だけで意表をつく方法。効果的なのは、やはり、
前者の方である。
② あいまいさをつく
「ウサギを正しく観察させる方法」などは、この代表的なものである。人間、その物をよく知っているようでも描きなさいなどと言われると、わからないものである。よくわかっていないなと自覚させると、次にはその物を真剣に見たり、考えたりする。
 二年「空気あつめ」、四年「虫の育ち方」などでも、この手法が有効に機能する。
③易から難へと構成する
学習には雰囲気というものが必要である。いきなり難しい発問をしては、解決できるものもできなくなる。子供たちの知ってる心を刺激し、雰囲気を盛り上げていく。その
勢いでもって、難の段階を乗り越えさせる。また、発問の連続性を考える時も、易と難のバランスを考えていくとよい。三年「じしやく」では、このことを特に意識している。
   
 向山洋一氏はオールマイティな方で、理科においてもすばらしい実践を発表されている。その中で、特に強く心を引かれたのは、三年「空気はちぢむか」である。私も一度
だけ三年生を担任したことがある。そして研究会の時、この授業を公開した(この授業は江部満・樋口雅子の両氏にも見ていただいた)。授業づくりにあたって、あれこれ資料に目を通した。しかし、どの実践報告も私の悩みを解決するものではなかった。悩みとは、「空気は縮む」という中心概念をつかませるプロセスに段差があることである。
 名案が浮かばず、私も過去の実践例と同様のプロセスで迫ることにたった。そのプロセスを示してみる。
① マヨネーズなどの空の容器を使い、的当て遊びをさせるi玉の有効性を確認させる。
② 玉の種類をかえで、的当て遊びをさせるI空気がもれないと玉の威力が増すことをつかませる。
③ プラスチ″クの筒を使い、玉を飛ばさせるI空気を押すと縮むことをつかませる。
 ところが、②と③がどうもスムーズにつながらない。大きな段差があるのである。モのため、③の授業は三段論法的で、少々理屈ぽいものになってしまう。
 このプロセスは不自然である。しかし、名案は見つから
ないまま過ぎていった。
  『理科教育』誌八六年二月号(明治図書)で新牧賢三郎氏が、向山氏の授業づくりについて紹介されていた。それを読んで驚いた。何とか苦労してつかませようとしている中心概念を、大胆不敵にも単元の頭に持ってきているのである。そして、なおかつ、ストレトに問うている。
 この授業の追試をしている方はたくさんいると思う。
 『理科教育別冊』誌胞12(明治図書)では、今井清吉氏が追試報告をされている。うまくいったということである。そうであろう。この方法だと子供が主体的に動く。発問は
最初の一つでよい。もういらない。活動的な三年生の特性を生かした見事な展開の仕方である。私が今後めざしていきたい授業の一つである。
 向山氏は、指導要領に必ず目を通すという。ここまではやっている人も多いだろう。すごいのはその後である。この読みとりを通して、何が大切であるかを的確に抜き出してしまう。そして、前述のような大胆な授業づくりをされる。これは、教材を本当に解釈する力がなければ、なかなかできる技ではない。
 向山氏は二年の学習とのつながりを重点にして、「空気はちぢむ」の授業方法を生み出された。これも一つの方法である。今後もこうした例はないかと、研究を進めていく
必要がある。
 ただ、理科の場合は系統性はあるが、その系統性に重なりの部分が少ない。たとえば虫の学習について見てみる。三年ではどちらかと言えば生態に重点が置かれ、四年では育ち方、形態が中心になる。五年になると、魚や水中の微生物というようにまったく異質な学習になる。だから、いつでも前学年とのつながりだけでは授業を仕組んではいけない。
 生活体験やそこから生じる意識をとらえて、授業づくりをしていく必要がある。
 向山氏の実践でよく追試をされるものに、四年「豆電球とかん電池」がある。ここでの学習スタイルは私の好みとするところではないが、それにしても目を見張らせられる
ことがある。
  「本質を見抜き、かみくだく力」であり、「子供を育て、生かす力のすごさ」である。
 こうした力は、向山氏が修業に修業を重ねて身につけたものである。一朝一タにして身につくものでない。
 でも、そうだからといって諦めることはない。何とか近づく方法がある。それ屯かなりの早道で。
  「追試」である。本気で向山氏の力を身につけたいと思うのなら、ただ文を読んで終わりとするのではなく、本気で追試をしてみるとよい。読むだけでは得ることのできな
い、さまざまなものが見えてくる。そればかりか、自分自身の力の向上となってはね返ってくる。このことは、多くの人の体験からも明らかになっていることである。
 -―「発問づくりの定石化」となると、まだまだ漠としたところが多い。「発問の定石化」と並行して考えていかねばならないと思っているところである。
     <旭川市春光町 北海道教育大学附属旭川小学校>

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